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絶望した男

朝目覚めてTwitterを開いたら、僕には逆立ちしても書けない文章が綴られていた。寝ぼけた頭でも藤崎が書いた文章だとすぐに分かった。
藤崎が見た世界は寸分狂いなく文章に置き換えられていて、どこまでも正確に描写されたその文章は、毎朝飲むコーヒーの代わりに僕の眠気を覚まし全身を覚醒させた。

藤崎にしか書けないその文章は、正確で隙がなく真実で満ち溢れていた。それは僕を覚醒させると共に奥底に眠っていた不安を煽った。自らの不安を紛らわすように僕は溜め息をつき、マンションの屋上に登り都会の片隅を見下ろした。

そこにはあらゆる価値に縛られた人達が、他人を軸に自らの振る舞いを操っていた。なくても良い物を身に付ける内に、なくてはならない物が増えていく。そんな付加価値で溢れる都会で藤崎は、何に縛られることもなく自らの軸に従い生きていた。既に誰かが書いたようなことを考えて、いつもと変わらぬ世界に安堵した僕は窓に映った自分を見た。そこには昨日より僅かに期待を失った自分の姿が映っていた。何も変わらない。ただ数年振りに藤崎の生き方に嫉妬しただけだ。

藤崎はライターとしてWebマガジンに文章を寄稿していた。編集者は何度となく書籍化したいと説得を試みたが、藤崎は応じなかった。
「俺の文章は消費されるだけで十分だ。書籍化されて誰かの書斎に飾られるのを想像するだけで萎えちまう」
編集者に吐き捨てるようにそう言うと、藤崎は1本しか吸っていない煙草の箱を残して立ち去った。

藤崎と僕はある夜にバーカウンターで出会った。僕の数少ない親しい友人が亡くなり寂しさを紛らわせようとバーに入ると、藤崎がウイスキーをオンザ・ロックで飲んでいた。彼は僕の目を見て、そこに映る感情を瞬時に見抜いた。僕がそのバーに行くと必ず藤崎がいて、ウイスキーをオンザ・ロックで飲んでいた。5回目にそのバーに行ったときに、藤崎が女を連れていた。それが藤崎の彼女だった。

そして3年前に前触れなく藤崎は行方をくらませた。僕は藤崎の彼女からそれを知らされた。彼女が藤崎に抱かれて朝を迎えると、彼は何も持たずにその姿だけをくらませたという。彼女は直感的にもう二度と藤崎が戻られないと悟ったようだった。
その夜彼女は僕をバーに呼び、藤崎のボトルを空けてくれとせがんだ。

「どうせ味わいもせずに浴びるように飲むなら安い酒を飲めばいいのに、彼は決まって高い酒を飲んでいたの。彼にとって酒は味わうものではなく飲むものだったのね」
ボトルが空くと彼女は僕にもう1本ボトルを入れさせて僕の分まで会計して去っていった。

藤崎は毎晩そのバーでウイスキーを飲んでいた。彼が手に持つグラスは常にロックグラスだった。藤崎は自ら飲む酒を割ることを許さなかったし、ストレートで味わうこともなかった。氷がウイスキーで溶ける前に藤崎はグラスを空にして、それを一晩に12回繰り返した。それを7年続けた藤崎はある朝、行方不明になったのだ。

藤崎が姿を消す3日前のこと。そのバーに行くと彼は珍しく酔っていた。僕がウイスキー・ソーダーをオーダーすると、藤崎はバーテンダーに「フレンチ・コネクションをシェイクで」とオーダーした。
後にも先にも藤崎がウイスキー以外の酒をオーダーしたのは初めてだったし、酒をじっくりと味わっている藤崎を見たのも初めてだった。

彼は僕の隣でグラスを傾けて静かにその酒を味わっていた。僕らがただ黙ってそれぞれの酒に向き合った末に互いのグラスが空になると、藤崎はその重たい口を開いた。

「俺は彼女を愛している。彼女も俺を愛している。それでも彼女を抱いた後にどうしようもなく、どうしようもなく満たされない気持ちになるんだ。そんな夜は酒も喉を通らない。愛した女を抱いても満たされないなんて絶望でしかない」

彼女も同じことを感じていたのだろうか。愛し愛される人もいない僕は、彼女がいなくなったときのことを考えてみろ、と藤崎に言いかけたが、その言葉を飲み込んだ。

Twitterに書かれた文章は藤崎の存在を示唆していた。そして僕はその夜、3年振りにバーカウンターに座った。

バーテンダーは3年前と変わらなかった。黙って僕の前に彼女が入れてくれたボトルを置いた。3年間もボトルをキープしてくれていたことに礼を言い、僕は藤崎の振る舞いをなぞるようにウイスキーをオンザ・ロックで飲み続けた。
バーテンダーは何も聞かず何も言わずただ僕のオーダーに忠実に酒を注いでくれた。

ボトルが半分空く頃に藤崎の彼女が現れて、僕の隣に座った。未だに藤崎の彼女というのが相応しいのかは分からないが、僕にとってはそういうことだ。いずれにしてもこのバーに来たということは彼女もTwitterに書かれた藤崎の文章を読んだはずだ。

3年振りに見る彼女は、今まで僕が見た中で最も着飾っていた。端的に言って美しかったが、誰も寄せ付けない雰囲気があった。それは着飾ることを揶揄していた藤崎に対しての挑戦的なまでの装いだった。

彼女は僕と同じくウイスキーをオンザ・ロックで味わった。僕が藤崎の文章のことを言い出す前に彼女が口を開いた。

「私は彼を愛していたの。彼も私を愛していたと思う。でも彼は私を抱いているときでさえ、私と向き合うことはなかった。彼は私よりも自分自身のことを見ていた。だから私も彼も愛し合いながらも満たされるもとはなかったの」

僕が何も言えずにオンザ・ロックを口にするとひとりの男が現れた。

彼はカウンターの端に座ると迷わずにバーテンダーにオーダーした。

「フレンチ・コネクションをシェイクで」



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