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誤訳の旅/ミシェル・ウエルベック『素粒子』:レーユヴァルデンは何処にあるのか

最近小説読んでないな、と思って寝る前に適当に本棚にあったのを読み始めたんですよね。たまたま手にとったのがミシェル・ウエルベックの『素粒子』でした。読んでいるのは野崎歓訳で筑摩書房から2001年に出た邦訳です。(以下の記述はこの単行本の話なので、文庫化時その他のタイミングで修正されてる可能性はあります。)

最近英訳で話題になったチリのベンジャミン・ラバトゥ(Benjamín Labatut)とか思い出しながら、そういえば二十世紀科学史的な蘊蓄を物語のフックにするやり方はあるなあ、ふんふん、などと思いながら読んでたんですけど、この箇所まで来てのけぞりましたよね。嘘です。のけぞりはしませんでしたが、わりと脱力してそのまま入眠しました。(太字強調は引用者、以下同じ)

ヤコブ・ヴィルケニンクはオランダ領フリージア諸島のレーユヴァルデンで生まれた。四歳のときフランスに来たので、オランダ領での暮らしについてはおぼろな記憶しかない。

ミシェル・ウエルベック『素粒子』野崎歓訳、筑摩書房、2001年、p. 51

いちおう原文を挙げておきますがこれは仏和翻訳の問題ではなくそれ以前の話です。

Jacob Wilkening était né à Leeuwarden, en Frise-Occidentale; arrivé en France à l'âge de quatre ans, il n'avait plus qu'une conscience floue de ses origines néerlandaises.

Michel Houellebecq, Les particules élémentaires, 1998

多少地理に詳しい人は「レーユヴァルデン」の時点でおかしいなと思うわけですが、たいていの人は「オランダ領フリージア諸島」てどこだろう、と思いますよね。調べると事典にはこんなことが書いてあります。

フリージア‐しょとう〔‐シヨタウ〕【フリージア諸島】
《Frisian Islands》北海沿岸に連なる諸島。オランダに属する西フリージア諸島、ドイツに属する東フリージア諸島、デンマーク沿岸に連なる北フリージア諸島からなる。いずれも夏は海水浴場となる。

"フリージア‐しょとう【フリージア諸島】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-04-26)

で、その「フリージア諸島」(= Frisian Islands = フリースラント諸島)は地図でいえばここです。

Wikipedia "フリースラント諸島" より

ほぼ砂州みたいな島が連なってる場所です。Wikipedia によると人口は8万人あまり。たぶん「レーユヴァルデン」はそのどっかにある街なんだろうな、と思いますよね。たぶんこれは近代ヨーロッパのひとつの中心であった「オランダ」つまりホラント地方とは違う地理的な周縁を意図した設定なんだろう、それにしてもこんな砂州に人が住んでいるんだな、とか。違います。

端的にいうと「レーユヴァルデン」なんていう街は存在しませんし、これは「フリージア諸島」の話でもありません。訳者は Leeuwarden をドイツ語かオランダ語っぽく(?)読んだのかも知れませんが、この街はふつうは「レーワルデン」と表記されるオランダ北部フリースラント州の歴史ある州都です。あのM. C. エッシャーの出身地ですね。(Wikipedia「レーワルデン」項目

でもフィクションだしウエルベックだし、実在の地理とは関係あってもなくてもいいのでは?と思ったりもしました。でも原文を見るとウエルベックは丁寧にも "à Leeuwarden, en Frise-Occidentale"、つまり「西フリジアのレーワルデン」と書いてるんですよね。フリジア(フリースラント)というのはだいたい下図の緑のエリアで、レーワルデンは★のあたり。つまりフリジアを北・東・西に分けるときには西フリジア West Frisia, Frisia Occidentalis と呼ばれる地方です(ただし West-Friesland とか West-Fryslân というと西フリジアのさらに西の部分を指します)。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Frisia_map.svg にレーワルデンのだいたいの位置を★で追加

つまり原文の意図からしても、現実の地理を背景にして物語を組み立ようとしてるところが邦訳ではおかしな話になってます。

ついでにいうと訳文にある「オランダ領」に該当する言葉が原文にあるかといえば微妙です。これは、フリージア諸島(フリースラント諸島)はオランダ領とドイツ領とデンマーク領に分かれているので、この登場人物はそのオランダ部分の出身なのだ、という勘違いに基づく訳者の「配慮」の産物だと思います。ウエルベックの原文では西フリジアのレーワルデン生まれの人は「オランダ出身」だと分かるのが前提になっているので、その辺は土地勘のない読者のために訳者が補うのはアリかもしれません(原著者の意図は別として)。

でも、いずれにせよそれは西フリジアをフリージア諸島に取り違えた上で現実の地理に則した補足をしてることになってるんですよね。引用部分の二文目に出てくる「オランダ領での暮らし」も、レーワルデンはオランダの街なので単に「オランダでの暮らし」でいいはずです。

(さらについでにいうと、"il n'avait plus qu'une conscience floue de ses origines néerlandaises"、つまり直訳すると「オランダという自分の出自についてはぼんやりした意識しか持たなかった」を「オランダ(領)での暮らしについてはおぼろな記憶しかない」と訳すのか、というところも気になりますけどね。origines (複数)はここでは本人の記憶に留まらない一族のルーツ的な意味合いではないか。まあこの辺は翻訳の芸の範疇なのだろうとは多いますが。)

ことフィクションに関しては「これはオランダ領フリジア諸島にレーユヴァルデンという街がある世界の話なのだ、と思って読めばよい」という話があります。ただし、こういう些細な間違いにも、小説の流れの中に原著の作者が意図していない引っ掛かりを作ってしまうという問題はあります。同じような話だと、たとえば訳書の冒頭に「胎児冷凍庫」などという不穏な日本語があるのですが(p. 11)、フランスでは実験室で胎児を冷凍してるのかと思ったら原文は "congélation d’embryons" で、これは日本語では普通「胚」の冷凍というのではないでしょうか。

誤訳の味わい度
イースターエッグ度:★☆☆☆☆(星1)
深刻度:★☆☆☆☆(星1)
味わい:★☆☆☆☆(星1)
コメント:校閲漏れかな?

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