本質的なめんどさやむなしさを受け入れる

めんどい。全部めんどい。
最近noteを投稿していなかったのも。
読書をあんまりしていないのも。
風呂とか食事がまちまちだったのも。
何もかも全部めんどいからやと思う。
もっと言うと生きることそのものがめんどくさい。
このめんどくささを昔は消そうと思っていたけど、まあ無理やなって気がしてきた。
生きることってめんどくさくてしんどい。

あと虚無的な気分になることもある。
受験勉強を頑張っているときに虚無的な気分になることがあった。
というか何かを頑張ろうとすると今でもそうなる。
意味を見出だせない。
受験勉強を頑張ると学歴が手に入る、学歴が手に入るとお金を稼ぎやすくなる、お金があると幸せになりやすい。
こう雑な深掘りでも一応の意味についての答えを出していくことができるが、最終的な「それで?」という質問には答えることができない。
宇宙視点で考えれば全てのことに意味はない。
まあ僕は人間くんなので宇宙視点で考えるのってズレてね?って指摘も理解はできるが、どうしてもこの虚無感が無視できない。

こういう人生の全てに貫徹して持ってしまうめんどくささや虚無感を、今までは否定したかった。
でも否定しようとすると更に存在感がまして辛くなった。
ただもう受け入れた方がいいんじゃないかって気になってきた。

釈迦は「一切は空である」と虚無主義的なことを説いた。
僕は全てが虚無だという事実があると主張したのではなくて、そう現実を捉えるのが釈迦にとって都合が良さそうだからそんなことを言ったように思える。
またある人が釈迦に「この世は無常か、有限か無限かどちらか、肉体とは何か、生命とは何か」やら形而上学的質問を色々投げかけて回答を迫った。
しかし、釈迦は「そういう質問は答えない、お前は毒矢に当たって医者に毒とは何かを聞いているようなものだ。私はお前に毒矢の抜き方を教えるだけだ。」と答えた。
生きることの消えない辛さ苦しさ虚しさをただ認知して受け入れることをしなきゃならない。
それを消そうとしたり、なぜ存在するのかを考えてしまうと更にしんどくなる。

仏教とは虚無や無常について説くものであるような気がする。
虚無や無常を受け入れたからって何もしなくなるわけじゃないし死ぬわけでもない。
また何もできなくなるわけでもない。
生きることが虚無ならば死もまた虚無だ。
現実にやるかやらないか、できるかできないかと、現実がどうあるのかは分けて考えなければならない。
逆に自分の見る現実を否定する、認知ができないことは自殺の理由になり得る。
生きる意味がどこまで行っても虚無に思える人が、無理やり生きる理由を探そうとすれば先程の毒矢の例のように更に苦しくなるだろう。
哲学者のシオランが「生にはなんの意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。唯一の理由にだってなる。」と説いたのは真だと思う。

虚無主義を受け入れるところ、全てをニュートラルに捉えてから始まるものもあるだろう。
僧侶・歌人の西行が「虚空の如くなる心において、様々の風情を色どる」と言ったことや、昔の仏僧が優れた絵を多く書き残したことはその例なのかな?
僕は良いnoteを描けるようになるかどうかは分かんない。
でもとりあえず更に苦しまないよう自分のニヒリズムやめんどくささをしっかり受容したい。

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