自分が嫌いで自我を消そうとした話
「自己肯定」「セルフケア」が流行して、数年経つ。
24時間戦うためのエナドリや、くすんだ肌を隠す化粧などは、大昔から人気だ。「なにかを加えることによって、弱った自分の上に強い自分を演出する」思想だ。それとは逆に、「盛る」から「引く」方向へと欲望がシフトしたのではないか。
過剰さを取り除いて、ありのままの自分を労り、癒し、受け止める。引き算をする。
ただ、手を伸ばした先が虚空だったら。
そこに誇るべき自分が見当たらなかったら。
自分のあるがままを認めたくても、引き算の果てに、持ち物や、地位や、一時の幸運を引き剥がした丸裸のわたしはとても頼りなく、臆病で、とても幸せとは思えなかった。現状を認める、だなんて嘘になる。セルフラブをするに値するセルフがないと思ってしまう。
セルフラブの捉え方に大きな変化を及ぼしたのは、「クィア・アイ」だった。
いちばん驚いたのは、specialとgorgeousという言葉の使われ方だった。
スペシャルという言葉は、自分の中では、ギフテッドな才能や、あるいは超人的な努力の果てに得られる才能に対する形容詞だった。ゴージャスという言葉も、自分の人生とは縁がなかった。ゴージャスは百貨店とか叶姉妹とかのこと。
すべて公立上がりの庶民の自分には関係ない、と思っていた。生まれ落ちた手札の中に含まれていなかったら、その後決して手にすることのない形容詞だと。
でも、クィアアイの中ではそうではなかった。
その人ならではの環境から生じる、ならではの苦しみや日々の戦いを通して、ならではの強さを身につけた状態。完全無欠差ではなく、一人ひとりオリジナルのタフネスがゴージャスでスペシャルと呼ばれていた。
後天的に磨かれていくもの、というよりも、すべてのひとが生得的に備えているもの。すべての人は、能力や立場に関係なく、ゴージャスで、スペシャル。すべての人は、大切に扱われてしかるべき。人に影響を与え、堂々と振る舞ってもよくて、にこにこしていてもいい、幸せでいい。涙がこぼれた。
でも、もし自分がそんなことをしたらバチが当たる!と思ってしまう。一体いつからそんなことを刷り込まれているのか覚えてないくらい、自分は蔑まれて当然だと昔から思い込んでいた。目立つな、目立つといじめられる。
だから、スペシャルでゴージャスだなんて、一朝一夕には受け入れられない。自分にはそんな考え方はできない。自分はクィアアイに出てくるヒーローやヒロインみたいに、信念もないしファイトもしてないし。
自分を愛せないゆえに、自分をすきになろうとすると自分をさらに嫌いになるという、バッドループにはまった。
原因はいつも「自我」だ。「特別な才能がなにもないのに、特別になりたくて、不幸自慢にエントリーせざるを得ない自意識」だ。
次に救いを求めたのは、仏教のエッセンスだった。高校の現代社会の科目で、愛別離苦という概念を知ったときは、衝撃的だった。一般的に「陽」とされている愛とかつながりとかを、「陰」苦しみの源だと割り切ってしまう、そのラディカルさ。この教えに従えば、ぜんぶよくなるかも、と思うまでだった。
それからは、ベストセラー「反応しない練習」などの仏教プレゼンツな自己啓発系書籍を読んだりと、仏教の知識を集めてみたりした。とにかく、余計なことを耳に吹き込んてくる自我を消したかった。
マインドフルネスは難しかった。これは、瞑想とか登山とかのときに、呼吸や体の感覚に集中することで、頭に次々湧いてくる雑念(いわゆるデフォルト・モード・ネットワークの産物)から意識を逸らそうというやつだ。でも、雑念、あいつらの声はどこまでも追いかけてくる。
頭で理解できても、現実問題として使いこなせず、わたしは自我に苦しみ続けた。わかるんだけど、できない。つまりわからないということか。どこか腑に落ちず、モヤモヤしていた。
そんなときに雑誌で出会ったのが、『躁鬱大学』『いのっちの手紙』など、双極性障害の当事者としてこもごもを描いている坂口恭平さんの言葉だった。
あー。そこまで言われちゃうか。そうだ。そーなんだよな。
自分への期待をゼロベースに戻す。それは自虐とか失望とかではない。ゴテゴテに武装していたネイルとかつけまとか落として。自分、はじめてやけど、やらしてもろてますねん。朝日みたいな気持ちで、物事に向き合う。
自己無能感はすごく爽やかなんだ。
「自分を認めよう」
「ありのままを愛そう」
幾度も聞いたそういう言葉よりも、地に足がついた言葉というか、なんとかなりそう、これならやれそう、という言葉ははじめてだった。
それ以来、なんだか荷物が軽くなったような心地で生きている。できなくて当たり前。だったわたしは「これから」なんだから。そう思えるようになった。
手札はこれからも与えられる。外からのチャンスで増えるかもしれないし、何かを続けてたら皆勤賞でもらえるかもしれない。
自己無能感はのびしろ。
やっとしっくりくる「自我」が心臓にはめ込まれた瞬間だった。
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