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論理を求める人ほど3番目の論理は軽視しがち説

ビジネスの現場で承認いただくためのプレゼン提案をして、「キミの提案は論理的じゃないから駄目」と却下されるケースについて。肌感覚として、提案者が論理的に説明できていない可能性の方が高いけど、もしかすると提案者と承認者の間で「論理的とは?」の定義が食い違っているかもしれないという仮説。

※この記事に限らず、私のnoteは全体的に「○○かもしれない」仮説を勢いで書いている。

論理的とは?

コトバンクでいう「論理的」のうち、以下の記載は私のイメージと近い。

前提された事件や事情から正しく推論するさま。

プレゼンの例であれば、「前提された事件や事情」として承認者にとって自明なことや、市場・事例などのリサーチ結果や、著名な先生が書いた文献の内容などが参照できる。

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既に受け入れていることを出発点として、筋道立てて説明する「推論」を経て、「だから私の提案に予算を付けるべきだ」という結論を導く。このときに使える道具として「論理的推論」があり、Wikipediaにも3種類が挙げられている。

演繹:「規則」と「前提条件」を用いて「結論」を導く
帰納:「前提条件」の次に起こる「結論」の諸事例の一部から「規則」を学ぶ
アブダクション(仮説形成):現在確定される「結論」と「規則」を用いて「ある『前提条件』が『結論』を説明することができるだろう」ということを裏づける

説明の中に「規則」「前提条件」「結論」なる要素が現れ、論理的推論は既知の2要素から未知の1要素を導く形をとる。演繹・帰納・アブダクションの違いは、どの要素を未知に据えるかの違いとも言える。探せば解説記事も多い中、以下はイラスト化されていてかわいい。

プレゼンで言えば「私の提案に予算を付けるべきだ」という「結論」を導きたいので、前提された事情を「規則」や「前提条件」に据えて、演繹を使えば良さそうに思える。話が入り組むと「三段論法」が数珠繋ぎに長くなることもある。

演繹するための材料として使う「前提条件」がまだ受け入れられていない場合は、帰納によって導いた規則を演繹の材料として使うこともあり、ピラミッド構造が深くなることもある。

「論理的とは?」の食い違い

演繹・帰納・アブダクションのどれも「未知な1要素を既知な2要素から導く」形をとっている意味で同列に思えるけれど、アブダクションだけは必ずしも正しい保証が無い意味で異色ではある。ロジカルシンキングの書籍でも演繹・帰納だけを説明して、アブダクションには触れないこともある。どちらかと言えばクリエイティブな発想法の範疇になってくる。

もしかすると先の例でも、提案者は演繹・帰納・アブダクションの3つを駆使した説明を「論理的」と捉えているのに、承認者は演繹・帰納だけしか「論理的」と認めていないため食い違っているのかもしれない。

・規則:承認者は「論理的な説明であれば承認する」と言うている
・結論:論理的であることに配慮したプレゼンが承認されなかった
 ↓
・承認者と提案者で「論理的」の定義が違うと仮定したら説明がつく

これもアブダクションによって導いた仮説である。アブダクションは「こう考えると辻褄が合でしょ?」という主張なので「いや、違う可能性もあるでしょ!」と突っ込まれる余地を残す。

イメージ的には、探偵が犯人の目星を付ける時の考え方がアブダクションに近い。最近再放送していた古畑任三郎でも、アブダクションによって話の前半に犯人だと気付くけれど、すぐには指摘しない。証拠を集めて演繹帰納によって犯人を追い詰める。反論の余地を絶つには、そのくらいの労力が必要になる。

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承認者が「絶対にそうやと断言できるんか?論理的ちゃうんとちゃうか?」と指摘し、提案者は「ちゃう可能性もあるけど、ちゃうねん。アブダクションやから論理的とちゃう?」と答える。確信を得るアプローチとして、提案者は行動に移してから現場の反応が知りたいのに、承認者は机上で確証が得られるまで承認しないという考え方の溝がある。

アブダクションの必要性

そんな欠点のあるアブダクションが存在する意義は、新しい発想を生むことにあるだろう。イノベーションや新規事業の話でよく出てくる中でも、書籍「ザ・ファースト・ペンギンス」の中で「新しい価値を生む方法論」の8つ玉のうちの1つとして挙げられていたのは印象に残っている。

松波先生が「イノベーションにはボケとツッコミが必要だ」とおっしゃっていた。帰納や演繹は客観的に正しいことが担保されるけれど、裏を返せば「誰がやっても一緒」であるため、競合だって同じ考えに至ることができ差別化にならない。だから、予定調和を崩したバカげたアイデアを行動に移して、場から学ぶ必要がある。

元ネタはKJ法だろう。巷で誤解されている「似たものをグループ分けする親和図法」とはまったく違う。意識が朦朧とするまで考え抜き、フセンが語りかけてくる声に耳を傾けてソーティングし、なんとか説明を付けようと言葉を紡ぐ過程の中で革新的な仮説が生まれる発想法がKJ法である。

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スキルとしても、帰納や演繹はそのうちAIに取って代わる予感がするけれど、絶妙の「ボケ」を捻り出すことは難しそうに思う。一見バカバカしい考えだけれど、もし本当だったら革新的なアイデアに賭ける勇気も、人間の仕事であり続けるだろう。

確実性と革新性のトレードオフ

対比させると、演繹帰納は石橋を叩いて渡る確実性を求める場合に使い、アブダクションは不確実でも革新的なアイデアをスピード感持って行動に移す場合に使う。良し悪しではなく性質が違う、自分の置かれた環境がどちらを必要としているのか、意識することは役立つだろう。

断言できるのは「確実に成功する革新的なビジネスプラン」なんて存在しないこと。確実性と革新性は、シーソーのように一方を重視すると一方は損なわれるトレードオフになっていて、不確実性を受け入れねば革新なことはできない。虎穴に入らざれば虎子を得ずである。

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ビジネス書のコーナーで「イノベーション」を扱う書籍の多さに対して、実際のビジネスシーンで「イノベーション」が必要される頻度は低い。社員を路頭に迷わせないように、企業活動の9割以上は確実に稼げなければならない。ただ、それだけでは事業の寿命が尽きて緩やかな死を迎えるので、賢明な企業であれば1割くらいは「次の飯のタネ」を探すべく革新に体力を割く。

その必要性を理解している経営者は「イノベーションだ!」と発破をかけるけれど、例え新規事業の担当部門であっても現場の承認者まで降りてくると「失敗したら評価が下がる」のだから、革新性よりも確実性を求める引力が働きやすい。だから演繹・帰納による説明を求める。

却下する気持ちに寄り添う

プレゼンまで話を戻して。論理的でないことを理由に却下された場合でも、「気に食わないから却下したいのが本音だけど、そう言うと論理的じゃないので、建前として論理のほころびを見つけて指摘した」可能性もある。←これも私のアブダクション。本当に気に入った提案ならば、応援者として論理の穴を埋めてくれるだろう。

指摘を真に受けて、論理の綻びへの対処として「革新的な取り組みをしているA社、B社で成功事例があり、製造業でもC社が取り組みはじめているので、弊社でも今はじめるのが妥当です!」という帰納を駆使してリベンジしても、「よそはよそ」と却下される憂き目に合う。帰納でさえ100%ではない。では何をもって「論理的」と言うのか。

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論理的推論の材料として、新しいパラダイムを持ち出した場合に起こりやすい現象だと思う。往年の承認者が重ねてきた成功体験と不一致をおこすので、論理的に言われたところで納得できないものは納得できない。「じゃぁ最初から論理なんて求めんなよ」という気持ちにはなる。

そんな環境に嫌気が指せば、説明コストの低い環境に身を移す(転職や提案先を変える)のも一手だけど、一所懸命やる覚悟をキメた場合には「バス停を毎日1cmずつ動かす」みたいなやり方で、繰り返し主張してジワジワと新しいパラダイムに改宗させるしかないのかなと思う。

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