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あくまでも

新宿は相変わらず人気が多く、新型コロナなどどこ吹く”かぜ”と言った感じだった。実際、アルタ前ではワクチン反対派の人間がマスクを付けないまま集会を開いていた。歌舞伎町の方と新宿駅東口の両方からやってくるマスクを付けた人間が、マスクを付けない人間を避けるように歩いた。一昔前に流行った団体行動のような鮮やかな避け方だった。社会が分断されているのは一目瞭然だった。それでも目まぐるしく人々が行き交う様子は、誰かが複雑なパズルを完成させるために何通りも組み合わせを試しているみたいにも見えた。
ゴジラの最新作を観賞し終わった帰り道で、友人から連絡があり、僕らは会うことになった。ちょうど僕はその友人に会いたい気分であった。
カメラショップで久しぶりに会う友人は相変わらずのように見えた。なぜ相変わらずなのかと言えば、カメラの素晴らしさを興味深く教えてくれるが、決して僕にそれを強要して薦めようとはしないからだ。それはいつもの彼だった。様々な大きさのカメラ部品が昆虫標本のように壁に飾られていた。ニコンやソニーのカメラの持つ無機物特有の重みがライト板の光の中で沈み込んでいくようだった。


「俺はさ、結局インスタグラムに向いていないなと思ったよ」
友人はクラフトビールをちびりと飲んだ。炭酸が得意ではないのだ。
「どこか旅行に出かけた写真とか、何度目かの記念日を祝うディナーの様子だとかさ、みんな似たようなさ、充実を絵に描いたような写真を投稿してんのよ。単一的でごくごく一般的な幸せの形が押しなべていっぱい。なんていうかさ―」
ドライフラワーの図鑑みたいな?」
「まさに」と友人は指を鳴らした。
適切な喩えであったかは分からないが、指が鳴ったことでそれは正解になった。
僕は昨夜吸ったシーシャの残り香がまだ胸の中で渦巻いているのを感じていた。それでクラフトビールを勢いよく流し込んだ。シーシャとビールが僕の身体に取り込まれ、流れ落ち着く場所は全く違う臓器であるということにこの時はまったく気がついていなかった。
幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸である」、友人は言った。
「誰の、言葉だよ」ゲップを堪えながら僕は問う。
「トルストイ」そう言って彼はまた少しグラスに口を付けた。

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僕には軽率に悪魔と取引をする癖があった。困難に直面すると「もう一生恋人がいなくてもいいから」とか「すっかりハゲてしまってもいいから」など身の内に起こりうる不幸な事項を交換条件に、悪魔に話を持ち掛けるのだ。それで誰のおかげなのか困難を乗り越えた時、いつも不思議な気持ちになる。こんな他人からしたらどうでもいいような不幸を買い取ってまでして、悪魔は何が嬉しいのだろう、と。果たしてそもそも彼らはそんなものを本当に欲しているのだろうか。僕は存在しない恋人を代償にしたのだろうか(いや、“いるはずだった恋人”という仮定が失われるというややこしさのことだが)。もし不幸そのものが悪魔の世界で貨幣的価値を孕んでいるとするのなら、いくらか納得できるかもしれない。不幸を買い取り、不幸を売り渡す。不幸の再配。

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友人と別れたあと、まだなんとなく京王線には乗りたくなくて椿屋珈琲に入った。椿屋珈琲になんて入るのは初めてのことだった。デモ連中がまだアルタ前で集会を開いているのが見えたから、それが終わるのを待つためでもあった。
「神様は見ています」とデモの真ん中でギターを弾く中年の女が意味不明なメロディで歌った。「たしかに。だけど見ているだけなんだよな」と僕は思った。

長いソファー席に案内された僕は端の席に座るやいなや、アイスコーヒーを注文した。隣の席で、右足に包帯を巻いた大学生くらいの若い女が、すぐそこのドンキで買ってきたのであろうメイク道具一式を机の上にばらまいていた。彼女と僕の間に置かれたドンキの黄色い袋は冷房の風に揺れてソファーから落ちそうだった。もしそれが落ちたら拾ってあげようかどうかというのを僕はしばらく真剣に悩んだ。
彼女は並べられたメイク道具を順番に手に取り、メイクアップを始めた。あまり褒められたことではないとは思いながらも、僕は気になって彼女のメイクアップの様子を視界の端で観察した。机の上に置かれた鏡越しに彼女と目を合わすことは決して許されない。切れ長の目に引かれるアイライン、立体感を出すアイシャドウ、頬を染めるチーク。洗練されていく美しさ。メイクが整うと彼女は自撮りを数枚撮り(真顔、キュートな笑顔といくつかのバリエーションがあるようだった)、会計を済ませる間にメイク道具一式を仕舞い、全てが終わるとそそくさと店から出ていった。右足をほんのわずかに引きずりながら。
なんとなく圧倒された気持ちになった僕は顎をさすった。びっしりと髭が伸びてしまっていることに気づいたのはその時だった。深く深いため息をついた。

アンナカレーニナの法則が成り立つというのなら、多様性とは各々の不幸をちゃんと認めることであってほしいなと僕は切に願った。
もし彼女がインスタグラムに自撮りを投稿したとして(自撮りを投稿することが幸せのひとつの形だとして)、その道筋には色んな背景があるのだということを誰かが知っておくべきなのだと、僕はあくまでも感じた。

幸福は、己自ら作るものであって、それ以外の幸福はない
そしてこれもトルストイの言葉だ。
 

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