見出し画像

2020/07/03の日記~夏の夜のルーティーン、小衛星みたいなホクロ、かき氷の乱~

生い茂った無数の夏草を叩く雨の音は、とても心地の良いものだ。
静かに心が濡れていく感覚がそこにはある。
◇◇◇◇◇◇◇◇
四半期決算の業務を終えた身体が「今夜は早めに休もうぜ」というので、布団にそれを置いてさっさと寝かしつけてやりたいのはむしろ望むところだった。だがしかし、僕は思っていたよりもある程度のことは済ましておきたい人間らしい。襟の少し汚れたカッターシャツを洗濯機に放り込み、下着同然の姿で5分少々のエクササイズをする。風呂に入り、モリアオガエルですら卵を守るためにそんなに泡を立てないぞ、というくらいに泡を立て、左手首から身体全体へと、だらしないラインをなぞるように洗う。風呂から上がれば、残り少ない牛乳パックに直に口をつけて飲む。冷蔵庫の有り合わせの食材で卵抜きチャーハン(小鹿の蹄くらいの大きさのニンニクがたっぷり入っている)を作り、水切りラックからそのまま取った平皿に盛り付けて食べる。

コンロで火を付けた金長の蚊取り線香をベランダの安全そうなところに置く。それから、帰り際コンビニで買っておいたいちご味の袋詰めかき氷を皿に移し、カレー用の大きなスプーンでそれを頬張る。頭のどこかで小柄な老人がトライアングルを掻き鳴らすようなキーンとした痛みを感じながら、『ONE PIECE』の考察Youtube動画を見て舌を巻く。シンクに溜まった汚れ物の食器類を洗おうか、それとも明日にまわすか一度真剣に迷って、結局洗う。退勤電車の中で見ていたアニメの残りの再生時間と、食器洗いにかかる時間がおそらくトントンだろうと概算見積もりできたからだ。"ながら見"するわけだ。

かかりつけの歯科医(の助手)に指導された通りの工程で歯を磨く。自分の右の黒目の横に小衛星みたいなホクロを見つけて驚き、思わず身体を引くと、洗面所の鏡が水垢で随分と汚れていることに気づく。指の腹でそれを擦っても汚れは落ちやしないので、明日クリーナーを買わないといけないなと思う。

歯磨きが終われば、ようやく身体を布団の上に置けるようになる。だがまだ天井の照明ライトは点いたままで、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のような紐が、風に揺れている。ベランダの蚊取り線香の匂いが混じった風だ。また起き上がってカンダタみたいに紐に手を伸ばすのは本当に億劫で地獄だな、なんて思う。

シュルレアリスムについてフランクに書かれた学芸文庫と、心理学の本、それから伊坂幸太郎の昔の小説をそれぞれ10ページずつ寝転がりながら読んで、知見を得たような慢心に陥る。ハリー・ポッターの原書を今夜も2ページだけ読んで、イギリス魔法文化に触れた気になる。
それからスマホで卑猥な動画を検索するものの、今夜はそういう気分でもないなと考え直し、再生されかけた動画を閉じ、股間に伸ばしかけた右手を天井照明の紐に伸ばす。だって疲れているのだもの。やるべきことはやるだけやったさ。
夏の夜の大まかなナイトルーティーン


◇◇◇◇◇◇◇◇
生い茂った無数の夏草を叩く雨の音は、とても心地の良いものだ。ショパンの数ある前奏曲に名を連ねるかのような音階をしとしとと昇っては下り、下っては昇る。
静かに心が濡れていく感覚がそこにはある。
瞑想するヨガインストラクターが指南するように、目を閉じて“自分の領域”を拡大してみる。それは自分の身体の枠を飛び越え、部屋にも収まることなく、雨雲を突き抜け、やがては宇宙と一体化する。「なーんてスピリチュアルで宗教色の強い行為なんだろう、笑っちゃうぜ」とその自分の領域とやらを自分の身体に押し戻す。
そしてふとどこか遠い所で雷が鳴っていることに気づく。ゴロゴロと鳴り響くその音はやがてどんどん大きくなっていく。近づいているのだ、とわかるとなんだか気分が悪くなってくるようだ。

違う。
そうじゃない。

雷ではなく、お腹が鳴っている。大地が揺れて不安になっているのではなく、内臓が揺れて気分が悪くなっているのだ。”自分の領域”を自分の身体に押し戻した時に、雷雲も一緒に戻してしまったみたいだ。ヨギーの危険思想。いや、かき氷でお腹が冷えてしまったせいかもしれない。かき氷の乱
腹の中で蜂起しているかき氷の乱をどうにか治める(そんなときのBGMはショパンの英雄ポロネーズだったりする)と、その腹の鳴りはやがて大樹を流れる水や養分の音のように聞こえてくる。500リットルの水や養分が維管束を巡る音を再現した、地元の博物館のブナのレプリカを思い出す。かつてそのレプリカに耳を当てたように、枕に耳を当ててじっとする。
そうして、ようやく眠りにつく。

*******************
破壊されたストーンヘンジみたいに灰に帰した、”蚊取り線香だったもの”を片付けるところから夏の朝のルーティーンは始まっていく。昨夜の名残りみたいなものをそこに発見する。空気中に微かに残る線香の匂いを吸い込んで、老獪な考古学者のように顎ひげをさすってみても、夏の雨降る夜の真ん中で考えていたことは、少しも思い出せない。
思惑を完全に記憶するには短い夏の夜と、謎を含んだ古代の遺跡はどこか似ている。

この記事が参加している募集

#習慣にしていること

130,238件

よろしければお願いします!本や音楽や映画、心を動かしてくれるもののために使います。