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徒然なる想い その十〜自由のトレードオフ〜

 大学は人生の夏休みである。この表現は、至る所で見聞きする。note 上でもこのことを題材にした記事はよく目にするし、また大学でもこんな話を確かに耳にしたことはある。個人的な見解を述べれば、夏休みと表現するほど暇ではない気もする(実験とレポートに追われるものの性かもしれない)のだが、受験勉強というものが常に付き纏う中学・高校と比較すれば、確かに時間に余裕はあると言えるだろう。そのため、夏休みのようにとまでは言わないにしても、時間的な余裕がそれなりにあるという点ではこの表現も間違いではないと考えている。

 ところで、世の中の全ての事象は表裏一体の関係になっている。時間的な余裕がある、つまり他人の手によって自分の時間が束縛されないということは、色々な課題が課される中学生や高校生からすれば贅沢の極みに見えるだろう。しかし、自分の時間を束縛する他人がいないということは、自分で自分の時間を管理する必要性が生じる。時間の管理を怠り無為な時間を過ごすも良し、時間の管理をしっかりして有意義な時間を過ごすも良しなのである。たとえ、一日中引き篭もってゲームをしていても、教授や大学の事務が何かを言ってくることはない(友人が何か言ってくることはあるかもしれないが)。これだけ聞くとゲーム好きな人は喜ぶかもしれないが、ここには陥穽が潜んでいることを忘れてはならない。何日も引き篭もっている内に、すっかり一世を風靡したネトゲ廃人のようになってしまったと仮定しよう。ネトゲに齧り付いてレポートも出さない、テストにも出てこないとなれば、単位はもらえず留年確定である。留年が決まってあたふたした(留年したことすら気が付いていない可能性もあるが)ところで、後の祭りである。来年頑張ってね、と教授に言われて話は終わりだ。随分と極端な仮定をしたかもしれないが、自由であるということは全ての責任が自分にあるということを主張したいわけである。何もこの話は大学生にだけ当てはまるものではない。例えば、有権者には選挙権という権利を行使しない自由もあるかもしれないが、棄権したということは選挙の結果に対して不満を言う自由を失うことにも通じる。つまり、棄権するという自由と引き換えにして、選挙結果に対して異議を唱える自由を失うわけである。先ほどのネトゲに齧り付いた架空の人の話で言えば、時間を好き勝手に使うという自由と引き換えに、留年が決定したという結果に対して異議を申し立てる自由を失ったわけだ。これらは或る自由と引き換えにして別な自由を失っているわけであり、生態学や進化学でよく使われるトレードオフという言葉を使えば、まさに自由のトレードオフと言える現象だろう。そして、この自由のトレードオフは自分の責任において行われる(意識的か否かは別として)ものであり、決して他人に責任を転嫁することはできない。従って、大学生のように時間が自由に使えるということはある人にとっては非常に有り難いことであったとしても、ある人にとっては自由のトレードオフに苦しむ結果になるかもしれないわけである。こう考えてみると、大学生のある程度時間を自由に使えるという特権は、全ての人にとって贅沢かと言えば決してそうでもないと言えるかもしれない。

 自由のトレードオフという概念を加えてみると、大学は人生の夏休みである、という表現にこめられた意味も広がりを持つようになる。小学生の頃の夏休みを思い出してみれば、おおよそ二通りの人に分けられることが分かる。つまり、宿題を早めに終えて余った時間を好きに使う人と、最初に時間を遊びに費やし最後に宿題に追われる人である。小学校の夏休みと本質的に似た現象は、人生の夏休みにおいても成立する。前者のように宿題を早めに終えられる人は自由というものを上手く利用している一方、後者のように最後に焦って宿題に取り組む人は自由のトレードオに苦しんでいると言える。このことを音楽、もっと言えばアドリブ演奏が重視されるジャズで例えれば、自由を上手く利用できる人はコード進行に則って芸術的な音楽を演奏できる人に当たり、自由を上手く利用できない人はどんな演奏をして良いのか分からず困っている人と言えるだろう。すなわち、人生の夏休みにおいて自由を上手く利用できる人間もいれば、自由を上手く利用できず自由のトレードオフが羈絆となる人間もいるわけである。よって、人生の夏休みを素晴らしいと感じる人もいれば、人生の夏休みを暗黒と感じる人もいるわけである。人生の夏休みという言葉が先行すると、無条件に素晴らしい時期と勘違いしてしまうが、素晴らしい時期にすることもできるし、逆に退屈な時期にすることもできるというのがこの言葉の本当の意味だ。人生の夏休みを謳歌するもしないも、他ならぬ自分自身の問題に他ならない。

 さて、自由のトレードオフという観点から長々と人生の夏休みという言葉の意味を考えてきたが、大学生のお前はどうなんだという声がどこからか聞こえてくる(気がする)。というわけで、軽く私自身の大学生活についても述べておこう。結論を先に述べておけば、私は私なりの手法で自由な時間を活用していると思っている。先ず、暇さえあれば読書をするように心がけている。専門の本(生命科学の本)は当然いつも読むものとして、他にもフランス文学(自然主義文学を読むことが多い)や日本文学(古典から現代小説まで)などの文学系統の本、社会的な内容を取り扱った(主に政治的な内容)本など多岐に渡って読んでいる。読書に勤しむということは学生の特権であり、この特権を利用しない手はない。とは言え、読書だけなら何も大学に行かなくてもできるだろうという批判も受けそうだから、次は研究室の活用と恩師とのコネクションを挙げたい。本来は学部四年生からお世話になる研究室であるが、私の場合は学部一年生の時からかなりお世話になっている。どういう形でお世話になっているのかの詳細は割愛するが、研究室では今まで馴染みのなかった動物(ヒドロ虫綱に属する小型のクラゲなど)の扱い方や、動物の発生研究に関する実験方法など実践的なことを学ぶことができた。また、幾つかの本を貸して下さったこともあり、座学の部分でも知識を獲得することができた。そして、最も大きい影響は元々遺伝学に強い関心を覚えていた私に、発生生物学の魅力を教えて下さったということである。大学に入る前までは発生生物学の面白さに自分一人で気付くこともできなかったし、またその面白さを教えてくれる人もいなかった。ところが、実際に発生生物学に関する話を色々と伺っている内に、発生も実は面白いんではないかと徐々に思い始めるようになってきた。そして、実験(必須単位の時間内)で実際に発生を観察した時は、発生生物学の面白さを肌で感じることもできた。そんなわけで、最初は視野に入ってすらいなかった発生生物学をテーマに卒業研究(新口動物である棘皮動物を材料にしたいと考えている)も行いたいと思えたわけである。以上のようなことはその道の専門家がいる大学だからこそ可能なものであり、私のように今まで余り関心のない分野に興味を持つきっかけを得られるかもしれない。人にもよるかもしれないが、熱心に研究室に通い詰めたところで嫌な顔をされないどころか、寧ろ歓迎されることの方が多いため、ちょっとでも興味があるものがあれば積極的に活用するのは良いと思う。勿論、研究室側も人を誘い込みたいという心理がある場合もあるだろうが、こちらにとってもメリットがあることから結局は win win である。こうした理由から、時間に余裕のある大学生が研究室を積極的に利用することは非常にお勧めである。研究室の活用という話で大分長くなってしまったが、他にも映画や音楽を鑑賞する時間を作るなどということも行っている。また、私自身は行えていないが、視野を広げるために海外に行くというのも非常に良いことだと思う。勿論、仮定の話で良いなら他にも色々と挙げることはできるが、最終的にはその人が何を目標としているのかということも関わってくる。そのため、この場でこれ以上列挙することは差し控えるが、何れにせよ本人の意識によって幾らでも時間を活用することはできる。大学でやっていることに興味があるのなら私のように早い段階で研究室に通うのも良いし、興味がないのなら卒業できる程度にだけ勉強して後は自分の興味のあることを追求するのも良い。自由な時間を上手く活用しようという意志と行動力さえあれば、基本的には充実した時間を過ごせる筈である。

 以上見てきたように自由にはトレードオフというものがあり、その扱いは必ずしも容易なものではない。しかし、一度上手く活用できるようになれば、自由な環境は不自由な環境よりも自分を成長させることができる。そして、自由な環境を活用するためには、何か特別なことをする必要はない。自分が何をしたいのかを知り、そのことを実現するための意志と行動力を持てば良いだけである。今回の記事は大学は人生の夏休みであるという言葉を皮切りとしたため、私の学生生活も交えながら話を進めた。そのため、来年度から大学生になる方には、是非とも時間を有効に活用してもらいたいと思う。加えて、大学生でない方であっても、今一度自由の持つ意味というものを考えて頂き、そしてその考えをあらゆる場面で活かして行って頂ければ幸いである。最後に、最近読んだラ・ロシュフコー「箴言集」の一節を掲載しておく。

それ自体不可能なことはあまりない。ただわれわれには、ぜひとも成しとげようという熱意が、そのための手段以上に欠けているのである。

ラ・ロシュフコー, 二宮フサ訳(1989). 箴言集. 岩波書店, 77

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