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OpenAI騒動とブランド価値とカズオ・イシグロ

OpenAI騒動――「非営利法人OpenAI」のサム・アルトマンCEOが取締役会に解任を通告される。主犯はCTO(最高技術責任者)のイリア・サツケバー? 目的はAIを人類全体の繁栄のためと考えるサツケバー氏が営利活動に舵を切りはじめたアルトマン追放を画策したもの? でもサツケバー氏は早々にX(旧Twitter)で「後悔している」と懺悔している、では真犯人は社外取締役3名? とか言っているうちにアルトマンがマイクロソフトに移籍するとの情報? そうこうしている間にOpenAIの従業員770名のうち700名が取締役会の退陣要求を署名? しまいにはアルトマンがOpenAI返り咲き、取締役会の体制も変更になるという結末。

この間、わずか4日。

さすがアメリカのテクノロジー企業。さわがしい。と、ようやく寒くなりはじめた季節、朝に緑茶を飲みながら、日々流れるニュースを読み漁り、騒動の行く末や内情に興味津々だった。

この騒動の実態は、非営利の象徴であるサツケバー氏を切り捨てて、アルトマンとマイクロソフトが営利化の道を選んだのだ! みたいな報道もある(JBpress)。本当ならば、SF映画の幕開けみたいな歴史的事件だよなぁ。

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ぼくが一番期待していた展開は、アルトマンCEOやサツケバーCTO、そして従業員全員がそっくりOpenAIから鞍替えして新しい会社を作った場合だ。そうなったら、新会社はOpenAIと同程度の株価を維持できるのだろうか、と。

仮定として、

  • 他の取締役会メンバーは、AI開発になんにも貢献していない。

  • 外部の取引先はOpenAIとの権利関係や契約を新しい会社と締結し直す。

  • 働いていた職場のファシリティ(オフィスや什器・備品)もそのまま。

こうなった場合、テクノロジー企業の価値の源泉はアルトマンやサツケバー氏などのリーダーと770名の従業員なわけなので、企業としての実力は変わらない。そうなったら株価はどう動くのだろう? そんなありもしない妄想が脳内を駆け巡った。新会社が立ち上がらなかったのが残念である。

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要は「ブランド」の問題である。「ブランド」はその法人(会社)を法人たらしめる特別なもの。株式市場がそれをどう評価するのか見たかった。

ブランドの定義については、中村正道さん「ブランディング」(日経文庫)の記述がシンプルながらわかりやすいと思う。

ブランディングは、ロゴマークの配置の仕方を規定することでも、広告で一時的なイメージをつくることでも、トータルのコミュニケーション戦略でもありません。ブランディングの対象がコーポレートブランドであれば、人事・採用、研究開発、商品開発、製造、営業、広報・IR等といった、すべてのビジネス活動を総動員して、顧客の意思決定に影響を与えることで、資産としてのブランドの価値を最大化させることが、ブランディングの本質です。
(中略)
次に、顧客の視点から考えた場合、ブランドはどのような存在でしょうか?
端的に言えば、顧客の頭の中に確立される確固たる評判(存在感)ということができます。

中村正道「ブランディング」(日経文庫)

ある対象をかたちづくる要素を分解・分析していき、その個別の要素を理解していけば、その全体の性質や振る舞いも理解できる、というのを要素還元主義という。

今回のOpenAI騒動で新しい会社ができた場合、要素還元主義的に、投資家たちの脳内にも同じようなブランド、確固たる評判(存在感)が立ち上がるのか。すぐには無理でも、どの程度の期間で同じ程度の株価になるのか、と。

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その法人を法人たらしめるものが「ブランド」であるならば、人間個人をその人たらしめる特別なものは何か。心や愛情や魂といったもの。ブランドを考えるとき、人間としての特別なものをセットに考えてしまう。

なぜセットになるのかというと、「ブランディング」(日経文庫)を読んでいるとき、並行してカズオ・イシグロの長編「クララとお日さま」をたまたま読んでいて、中身に通じるものがあったから。

「クララとお日さま」イシグロがノーベル文学賞後に初めて刊行した長編。幼い子どもと友達になる目的で作られたAIのクララと病弱な少女ジョジーの物語である。

この物語には、イシグロらしいネタバレがある。未読の方は、これから下の文章は思いっきりネタバレになるため読まないでおかれることを推奨する。

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この話のネタバレ、大きな秘密とは、AIであるクララは、ジョジーのコピーとして準備されていること。ジョジーの母親が、もしジョジーが亡くなったときに、代わりにすることを計画している。

その理由はジョジーが憎いからではない。ジョジーには姉がいたが、すでに亡くなっていて、母親は過去の死別の悲痛から、ジョジーまで喪ったらおそらく自分は耐えられないと予感している。そのため、ジョジーの姿かたち、行動や意思決定をクララに学習させ、再現できるようにそばに置いている。

この計画には、カパルディという人物も関与していて、肖像画家だけれど、マッドサイエンティストみたいな存在でもある。カパルディは、人の心すら再現できると考える、還元主義的な考え方の持ち主。

この物語を貫くのは、人間を形づくるもの、容貌や、認知の癖や意思決定の傾向、行動まですべて同じく再現できたときに、それは同じ人間でありうるのか、というテーマである。

そして、この物語の最後では、人間には「特別な何か」があり、それは再現できないという結論に達する。これは企業に置き換えればブランドと言っていいのかもしれないな、と読んでいて思った。

目には見えない、数値化ができない概念。「クララのお日さま」では、最後にAIのクララ自身をして、巨大な粗大ごみ置き場のような場所、青い空の下で、このような言葉を述べさせている。

「カパルディさんは、継続できないような特別なものはジェジーの中にないと考えていました。探しに探したが、そういうものは見つからなかった――そう母親に言いました。でもカパルディさんは探す場所を間違ったのだと思います。特別な何かはあります。ただ、それはジェジーの中ではなく、ジェジーを愛する人々の中にありました。だから、カパルディさんは思うようにはならず、わたしの成功もなかっただろうと思います。わたしは決定を誤らずに幸いでした。」

カズオ・イシグロ「クララとお日さま」

今回のOpenAI騒動、ブランドの維持や毀損に関して「決定を誤らずに幸い」だったように思われる。


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