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夏の日に 佐古幸男(著)

豊かな感受性が〝受信〟する神秘的な日々のきらめき

神様の声を聴き、日常生活に生かせる人の特徴とは

「神の声を聴く」ことができるというのは、いわゆる宗教家に限らない。日常生活の人の心の動きや自然、聖なるものからメッセージを感じ取れる感受性が必要だ。そしてそれを言葉に落とし込むことができて初めて、他の人にもメッセージを伝えることができる。本書はそうした聖なるものの重要性を説く。

感受性こそが神秘性の受信機
「ひふみ神示(日月神示)」といえば岡本天命が「国常立尊」(国之常立神)という高級神霊が降りてきて、その神示を自動書記によって記述したとされる書物のことである。人間としての心構えといった日常的な教えから、日本や世界の行く末に警鐘を鳴らす内容までを含む。岡本天命は以前より霊的なものを感じ取る能力に優れていたようで、だからこそ人類に対するミクロからマクロまでのさまざまな警鐘を授けられる対象に選ばれたに違いない。

著者も同様に、「選ばれた対象」なのかもしれない。本書で著者が振り返る生活のあちこちに、八百万の神々たちが確かに存在し、著者に気づきを与えているようなのだ。

その一端はまえがきからも読み取れる。著者は幻冬舎で出版した著作『市井の片隅で』にある一文を書いたことで体調を崩す。岡本天命のような人物でも、授けられたひふみ神示は文字こそ日本語だったが、その並びは当初人間には解読できない文章だった。

神と人間は同じ言葉を使っているとは限らないため、言葉ではない方法で自らの意思を伝えることがある。著者の場合は、「体調に影響を及ぼす」ことで、著作に対する注文を付けたのだろう。

こうした神からのメッセージを受け取るためには、日ごろから感受性を豊かにしておく必要がある。

〈何百年も生きてきた木が一度は枯れてしまったかと思われたが、幸いにして久しぶりに見た木は生きていた。以前ほどの枝ぶりではない様に思えるが生きていた。木と、木を守ってきた人達に感謝いっぱいである〉

著者がこう書くように、人や自然から感じられる喜怒哀楽を敏感に受け止める感性がなければ、神からの伝言が仮にあったとしても、気づくことはできない。

日本に生まれたことの意味とは
世界に「神を降ろす」伝承は数多くあるが、一神教ではなく多神教の、アニミズム(自然崇拝)の影響の強い地域が多い。日本はまさにそうした「降臨」の体験を持つ人間が多く存在する。ひふみ神示のような具体的な教えではなくとも、何かを感じる能力を持つ能力を、本人は気づかないながら持つ可能性のある人たちはいる。

本書で著者もこう述べる。

〈光の世に進める人は最早人間とか人類とかではなく、神様の域にまで進める人かとも思われます〉

特に、ひふみ神示でも本書でも強調されているように、日本は「霊性」の高い国であり、他の国とは異なる神との接点を持っている。著者はこうも書いている。

〈ひふみ神示では、最後の大戦いは日本だと知らせている。人類の最後かと思えるような表現もある。天と地がまぜまぜになり何処に逃げても逃げ場はなく、臣民皆のたうつことになり、全員一時仮死状態になり、神が印を付けて置いた者を拾い上げると説かれている。ひふみ神示は此の一点に尽きるのではないかとさえ思える。〉

古事記や日本書紀が存在し、ひふみ神示でも長い歴史と精神性が世界の命運を左右するとされている日本に生まれたことの意味を、もう一度噛みしめる必要があろう。

本書を読んで、自らの感受性や神との接点、日本人として生まれたことの意味を改めて見つめ直してみてはいかがだろうか。

文・梶原麻衣子

[著者略歴]
佐古幸男(さこゆきお)


あとがきでまえがき


 あとがきでまえがき、何故こんな変な書き出しになってしまったのか、説明書きをお許しいただきたい。

 以前私は、本を出している。

 幻冬舎から「市井の片隅で」と題して出版していただいた。物書きとは全く無縁の私が「ひふみ神示」を読んでいると、まもなく私達の住んでいる世界に終りが来ると言う。

 この世の終りが来る前に、来たる次の世界に進むべき人々を神が選別し、神のしるしを付けておくというのである。此の一文を見、出版のイロハも分からぬ者が神様のお役に立ちたいの思い一心で、止むにやまれず書いた次第である。「市井の片隅で」のあとがきで私は大きな過ちを犯してしまった。それにより私の体に異変がおこった。

 若い頃から、ある程度年をとれば田舎で自給自足の暮らしをしたいと考えていた。

令和二年六月から家探しを始め、嫌がる妻を説得し、私と妻の生まれ故郷に近い所に家を求め、三年初頭から引っ越しの準備を進めてきた。毎月、一回ないし二回、軽トラで家財を運び込んでいた。六月二十四日徳島に来て二十六日大阪に何事も無く帰った。

 あくる日から全く食欲がなくなった。

 当初、私は喜んでいた。若い頃断食をやってみたいと思っていた時期があるからである。生駒山に二ヶ所、断食道場の看板を掲げているのも知っている。道場に行かなくても何の苦も無く断食が出来ると思ったからである。

 断食は一週間かけてゆっくり食べ物をへらし、二・三日間水だけで暮らし、又一週間かけて食欲を戻していくという知識はあった。

 二日間は水の一滴も飲んでいない。

 二日過ぎた頃からめまい、ふらつきを覚え、三日目に西瓜の先っぽ少しと麦茶少し飲むも、めまい、ふらつきはひどくなる一方である。七月一日、妻に急き立てられ近くの病院へ行く。此の頃は幼子が伝い歩きをするような状態である。頑固者の私は未だ病院行きを拒んでいた。片手で妻の肩につかまり、片手で杖つくと言う情けない状態で七百メートル程度先の病院へ歩いて行った。

 受付を済ませると、脳神経外科の前で待つように言われ、看護婦さんが両手をだし手首を強く握る様に言うがあまり力をいれなかった。そこへ先生がやって来て症状を訊かれ、めまい、ふらつきがすると告げると歩いてみろと言う。真っ直ぐ歩けないのを見てとると電話を取出し、この様な患者を待たせてはいけない、直ちに緊急外来にまわせと指示している。

 此の頃まず疑われるのは新型コロナである。

 鼻の中に綿棒を差し込みグリグリまわし検体を取っている。すぐに診察室に行き浴衣に着替えさせられ、いろんな検査が始まり点滴も受けている。狭い台車に乗せられ部屋を移動するたび、不安そうな顔の家内が覗き込む。

 脳波の検査の時には頭部を固定され、絶対に動かないで下さいと言われ、大きな音がしたかと思えば、あちらでコンコンこちらでコンコン、ひどく長い時間に思えた。

 脳波の検査が終わるとまた診察室に逆戻り、さきほどと同じように体中に聴診器のようなものを貼り付けられ、点滴を受けている。

 先生はパソコンの画像を見つめ何度も首をかしげる。何度か診察室を出入りした後、ここ一週間の食事の内容を聞かれたので、昨日は西瓜の先っぽ少しと野菜ジュース、一昨日もほぼ同じようなものと答えると、大きく頷き、

「それだ。水分の絶対量が不足している。野菜ジュースと言ってもわずか二百cc、人間は一日少なくとも一・五リットル、夏場汗をかく時は三リットル必要、しっかり水を飲みなさい」。

 といわれ、別の部屋で点滴を続けた。

 点滴が終わるのを見計らって先生が部屋にやってきて、「起き上がって歩いてみてください」。といわれ、歩いてみるがまだ大きくふらつく、

「ふーーん、まだふらついていますね、今日はこれで帰ってください」。

「先生、薬は」。と尋ねると

「薬は必要ありません。帰ったらしっかり水を飲んでください。二三日してまだおかしければまた来てください」。

 と言われ帰宅することになった。

 六時間くらい待っていたであろうか、家内の所へ行き、「帰るよ」。と告げると

「帰ってもいいの、薬は」。

「薬は要らない帰って水を飲めと言われた」。

「このまま入院するとばかり考えていた、何を揃えたらいいのか考えていた、とにかく、よかったよかった」。

 次の日から、教えられたように水分摂取を心がけるも症状は幾分軽くなったが、まだすっきりしない。毎日、自分のやったことを、あれが悪かったか、これが悪かったかと考えてみるも思い当る事が無い。十日ほどたっていただろうか、たぶん此れだと思いついたがまだ確信がなく、神様に詫びる気になれない。

 更に五日ほどしてこれしかないと思い、家に小さな神床を作り神様をお祀りしている前に行き、額ずいて、

「このたびは、神様に対しまして心ならずも大変ご無礼な事を致しまして誠に申し訳なくお詫び申しあげます」。

 御神前に額ずきお詫びをしたとたんに頭が軽くなり、立ち上がってみても、めまい、ふらつきがなくなっている。

 此の時、思い至り、お詫びした内容が以前「市井の片隅で」のあとがきの冒頭に、

宗教という名のパズルを拾い集め、ジグソーパズルを組み立てるように書いたのが此の書籍「市井の片隅で」です。

 これがいけなかった。

 神様はスウ教 崇数と、シュウ教、宗教をはっきり分けておられる。人の言うことを信じ仰ぐのが宗教の信仰、ムネ、胸、陰、水、の教え。陰の教え、陰の時代から陽の教え、陽の時代に切り替えたと宣言されている。

 人向き信仰から神向き信仰へ、信者と言わず神様と手を組むと言う意味で組手と云う。

詳しくは真光教団の御聖言をご一読いただきたい。

 此のことに気が付き御神前に額ずいた時、頭が軽くなりめまい、ふらつきはなくなった。

 気が付いても依怙地な性格なのかなかなかお詫びはできないでいた。

 体調の悪い時はあれこれ考えるのである。

 病院に行く朝「市井の片隅で」。の担当者にあとがきの一部を削除してほしいとお願いした。

「どうしてですか」。と尋ねられたので

「人間が立ち入ってはいけない部分に立ち入ってしまったかもしれないと思うからです」。

と答えると了解していただけた。

 あとがきのなかで、あとがきとしては少し長くなりますが、最後まで読んでいただいた方にお礼と、サービスと、蛇足を書かせていただきます。と書いているが蛇足の部分がない。個人的に差し上げた人達の中で何人かから意見を聞かせていただいたが此のことに触れた人はいなかった。

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