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トルコ旅行で知った「ギリシャ語」と「キリスト教」の関係


ギリシャ語への疑問

古代ギリシャのことを知っていく中で、ずっと気にかかっていたことがあった。
古典(古代)ギリシャ語と現代ギリシャ語はそれほど大きく違わないと思う。でも、中世には「ギリシャ」という国はなかったし「ギリシャ人」もいなかった。
古代ギリシャは衰えてローマ帝国の一部となり、人々は「ローマ人」を名乗るようになった。近代ギリシャがオスマン・トルコから独立するのは19世紀初め。その間、「ギリシャ語を話すギリシャ人」はいなかったはずだ。

だれがどのような理由で、この言語を伝え続けたのだろう?

トルコの過去

今回トルコ旅行の事前準備や実際に旅行をする中で、この疑問に対する答えを得た。

「トルコ」と私たちは一口に呼ぶが、トルコには長い歴史があり、様々な国がその地域を治めていた。今回訪ねた遺跡はギリシャの植民市やヘレニズム時代のものが多かったが、それらの都市ではギリシャ語が使われていた。

やがてローマ帝国が地中海沿岸をはじめとする広大な範囲をすべて治めるようになっても、この地域の公用語はギリシャ語のままだった。書物はすべてギリシャ語で書かれていた。

ローマ帝国は4世紀前半に首都をコンスタンチノープル(イスタンブール)に移し、4世紀末には東西に分裂してしまう。
コンスタンチノープルを首都とした東ローマ帝国はそのあと1000年も続いた。そしてギリシャ語を公用語として使い続けていた。

キリスト教との関わり

同じ4世紀ごろ、ローマ帝国はキリスト教を国教とする。
「新約聖書」は1~3世紀ごろギリシャ語で書かれた。この地域の公用語がギリシャ語だったからだ。トルコの遺跡にも初期のキリスト教に関わるものがたくさんある。
東ローマ帝国ではこれがそのまま聖典として読まれていた。
そして、その総本山として「アヤ・ソフィア」が建設された。

15世紀末にオスマン・トルコが東ローマ帝国を滅ぼした。オスマン・トルコはイスラム教の国だが、比較的寛容で、被征服民にイスラム教やトルコ語を押し付けるようなことはなかった。

東ローマ帝国の民は「ルーミー(ローマ人)」と名乗り、キリスト教(いわゆる「ギリシャ正教」)を信仰し、聖書の言語である「ギリシャ語を」使い続けた。アヤ・ソフィアはモスクになったが、コンスタンチノープルは正教の総本山であり続けた。

近代ギリシャ

19世紀初頭、ギリシャは独立戦争を起こしてオスマン・トルコから独立した。国境に関する紛争がしばらく続いたらしいが、今のような形になった。

トルコにはギリシャ語を話す「ルーミー」が、ギリシャにはトルコ人が取り残された。両国はいささか強引な形で、この両者を「交換」したらしい。

こうして「ギリシャ語を話しギリシャ正教(キリスト教)を信仰するギリシャ人」の住む近代ギリシャが誕生したのだった。

キリスト教に対する思い


古代ギリシャの好きな私にとって、キリスト教のイメージはあまりよくない。
唯一神信仰としては仕方がないのだろうが、彼らはギリシャの神々を「妖精」や「悪魔」として貶めた。
また、古代ギリシャで花開いた自然哲学の多くが、キリスト教の教えにそぐわないものとして、停滞を余儀なくされた。

だが、ギリシャ語そのものを現代にまで伝えてくれたのがキリスト教徒だったということを学んで、私のキリスト教に対する思いは、少し変化したかもしれない。

言語が滅べば、その言語による文化も滅んでしまう。
ただの「ギリシャ好き」に過ぎないが、ギリシャ語を守り続けたキリスト教(とその存在を許したトルコ)に心から感謝したい。


注記
私の歴史知識はほんのわずかなものなので、ここに書かれていることはあくまでも私個人の覚え書きにすぎません。

いわゆる「ギリシャ正教」(西のローマ・カトリックと区別してそう呼ばれる)は、国ごとに総本山があるそうです。イスタンブールの総本山はそれらのまとめ役となっているようです。




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