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【目印を見つけるノート】267. ポール・エリュアールの詩 『自由』

今日は、とある詩を紹介することにします。
ポール・エリュアール(1895~1952)の『自由』(Liberte)です。

📖

  自 由


ぼくの生徒の日のノートの上に
ぼくの学校机と樹々の上に
砂の上に 雪の上に
ぼくは書く おまえの名を

読まれた 全ての頁の上に
書かれてない 全ての頁の上に
石 血 紙あるいは灰に
ぼくは書く おまえの名を

金色に塗られた絵本の上に
騎士たちの甲冑の上に
王たちの冠の上に
ぼくは書く おまえの名を

密林の 砂漠の 上に
巣の上に えにしだの上に
ぼくの幼年の日のこだまの上に
ぼくは書く おまえの名を

夜々の奇蹟の上に
日々の白いパンの上に
婚約の季節の上に
ぼくは書く おまえの名を

青空のようなぼくの襤褸の上に
くすんだ日の映る 池の上に
月のかがやく 湖の上に
ぼくは書く おまえの名を

野の上に 地平線に
小鳥たちの翼の上に
影たちの粉挽き場の上に
ぼくは書く おまえの名を

夜明けの一息ごとの息吹の上に
海の上に そこに泛ぶ船の上に
そびえる山の上に
ぼくは書く おまえの名を

雲たちの泡立てクリームの上に
嵐の汗たちの上に
垂れこめる気抜け雨の上に
ぼくは書く おまえの名を

きらめく形象の上に
色彩のクローシュの上に
物理の真理の上に
ぼくは書く おまえの名を

めざめた森の小径の上に
展開する道路の上に
あふれる広場の上に
ぼくは書く おまえの名を

点くともし灯の上に
消えるともし灯の上に
集められたぼくの家たちの上に
ぼくは書く おまえの名を

二つに切られたくだもののような
ぼくの部屋のひらき鏡の上に
虚ろな貝殻であるぼくのベッドの上に
ぼくは書く おまえの名を

大食いでやさしいぼくの犬の上に
そのぴんと立てた耳の上に
ぶきっちょな脚の上に
ぼくは書く おまえの名を

扉のトランプランの上に
家具たちの上に
祝福された焰むらの上に
ぼくは書く おまえの名を

とけあった肉体の上に
友たちの額の上に
差し伸べられる手のそれぞれに
ぼくは書く おまえの名を

驚いた女たちの顔が映る窓硝子の上に
沈黙の向こうに
待ち受ける彼女たちの唇の上に
ぼくは書く おまえの名を

破壊された ぼくの隠れ家たちの上に
崩れおちた ぼくの燈台たちの上に
ぼくの無聊の壁たちの上に
ぼくは書く おまえの名を

欲望もない不在の上に
裸の孤独の上に
死の足どりの上に
ぼくは書く おまえの名を

戻ってきた健康の上に
消え去った危険の上に
記憶のない希望の上に
ぼくは おまえの 名を書く

そしてただ一つの語の力をかりて
ぼくはもう一度人生を始める
ぼくは生まれた おまえを知るために
おまえに名付けるために

自由、と。


引用『エリュアール詩集』(安東次男訳)思潮社


🎙️

この詩については以前も書きました。
【目印を見つけるノート】255. シモーヌ・ヴェイユが好きなのです

第二次世界大戦時のフランスにおける、ナチスに対するレジスタンス(抵抗)の象徴のひとつです。最後の最後まで出てこない、いちばん大切な言葉、それが『自由』です。

それと同時に、この詩はエリュアールが愛する女性のために書いたものです。その女性の名はマリア、エリュアールはニッシュと呼んでいました。女神ニケのことですね(NIKEも同語源)。この詩は愛の詩でもあるのです。

ある種の詩人というのは厄介なもので、どうしても、ぞっこん惚れ込んでいる対象にあててまるごと詩を書きます。ダンテのベアトリーチェ(『神曲』)が有名ですが、あそこまで讃えられると微妙かもしれません。ただ、後に残る詩というのは、たとえ詩人の愛しいひとに向けられたものであっても、多くの人に通じる、いろいろな視点から読んでも訴えかけてくるものです。
そうでない場合は、うーん🤔

例えば、
中島敦の『山月記』は、李徴という男が虎になってしまうお話です。俗にいうエリートだった彼は詩人になりたかったらしく、たまたま虎になっていないとき、旧友に自身の孤高の詩を詠んで聞かせます。
旧友は内心で「格調高いが、広く親しめるものではないなあ」というように感じました。
詩に何が必要なのかということを示唆するエピソードです。

そのような意味で、『自由』は個人の愛とみんなの自由が見事に融合したものだといえるでしょう。

この詩を写すのは多少骨が折れますが、私の大好きな俳優、ジェラール・フィリップが朗読しているのを見つけてしまいました。それで写す気になりました。
情熱というのはそういうものです😅

今日はここで燃え尽きました。
それではまた、ごひいきに。

尾方佐羽

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