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書籍【共鳴する未来~データ革命で生み出すこれからの世界】読了

https://booklog.jp/users/ogawakoichi/archives/1/B08KJ34PFW

◎タイトル:共鳴する未来~データ革命で生み出すこれからの世界
◎著者: 宮田裕章
◎出版社:河出新書


なぜ日本人はデータの活用が上手に出来ないのか。GAFAのような企業を生み出せないのはどうしてなのか?
データとは現代の石油だという。
しかし、この言葉を聞いて、正しく理解している人がどれだけいるだろうか。
現実的にはデータは資源として限られているものではないし、燃やしてしまえば二酸化炭素が出て、後は使い道がないというものでもない。
価値という意味ではデータは石油に匹敵するかもしれないが、余りにも用途が違うために、逆に混乱を招いているような気がする。
そういう意味でも「データの本質」を正しく知ることは、本当に重要なことだと思うのだ。
データに価値がありそうだということは理解できるかもしれないが、石油のように限られた資源という訳でもない。
日本は石油が生産できないから他国から輸入してくるしかないのであるが、データが日本にないからといって輸入するものでもない。
色々な意味で様相が違うから、データの本質を捉えられない。
根本的に解像度が高まらないために、日本はデータを活用した国家に生まれ変われない。
DXについて、「アナログをデジタルに置き換えること」と勘違いしているのと似ているが、DXこそデータであり、データこそDXの根幹であることを理解しなければならない。
データはもちろん大量に集める必要があるが、それを共有化してこそ価値を生む。
現状はGAFAのような巨大企業がデータを独占しているが、本来はそれらデータも一般に共有化されたら相当に価値を生み出すだろう。
その価値をGAFAに独占させたくなければ、やはり国家が正しくデータを運用すればよい訳であるが、国民の感情的にも難しい部分があるのは確かだ。
データの本質を理解していない割に、GAFAにデータを握られるのは心地よくは思っていない。
しかしGAFAを利用しないで生活が成り立たないので、しょうがなく個人情報を差し出している。
これが国家の管理となった場合、どうなるだろうか?
外国企業に自分の情報を握られる抵抗感と、国家に監視されかねない抵抗感と、実際は大きな差はないのかもしれない。
抗えないとしても、自分のデータを差し出すことには抵抗があるようだ。
自分のデータは差し出したくなくても、結局はデータの恩恵にあやかりたいと思っている人が大半ではないだろうか。
病気の診断が一番分かりやすい。
レントゲンを撮った場合に、写った影が癌なのかどうなのか?
医師が診断するとしても、1万人のデータからAIが癌である可能性を割り出した方がどう考えても正しそうだ。
自分のデータは差し出さないのに、1万人のデータを利用するのは都合が良過ぎる。
やはり自分のデータも差し出して、他人の診断にも使えるようにしなければいけない。
こうしてデータの母数そのものが増えていけば、さらに診断の精度も上がっていく。
1万人のデータよりも、10万人のデータの方が精緻だし、さらに100万人のデータの方が精緻になるのは当然である。
これはデータを管理するのが企業なのか国家なのかは別として、データ管理者だけの便益ではない。
利用する人も明らかにメリットを享受できていると言える。
だからデータは多い方がいいし、利活用に制限を設けない方が良いに決まっている。
しかし、あらゆるデータを提供するのにはどうしても抵抗がある。
ヨーロッパはGDPR(一般データ保護規則)を設けて、データを企業に独占させないように規制を敷いた訳であるが、それでは日本はどうすべきか。
そもそもの個人情報データに関するリテラシーが低い状態で、現状の日本は外国企業からすると天国のような状態だと揶揄されている。
国民は違和感がありつつも、声高にNoを言う訳でもない。
訴える訳でもなければ、罰則も緩い。
確かに天国のような状態であるが、本当にそれでよいのか?
「誰かがちゃんと管理してくれればいいのでは?」
「企業が持っていれば、おススメとか出してくれて自分も便利になるからいいのでは?」などと安易に考えている傾向がある。
(何も考えていないとも言える)
データは実体が見えないから、想像するのが難しいのかもしれないし、日本人の感覚的にそもそも理解しづらいというのはあるのかもしれない。
日本にももちろん想像の世界は存在する。
(「想像の世界」が「存在する」のは矛盾しているが、ここでは深掘らず省略する)
過去で言えば妖怪の物語や、浮世絵の感覚。今でもマンガの世界観などは他国ではなかなか生み出せないような想像力だと思う。
しかしながら「データ」を日本人がイメージするのは感覚的に相当に難しい。
コンピューターを生み出したのが日本人ではなく西洋人だというのも、同じ文脈の延長線上かもしれない。
根本的に日本人にはこれらの感覚が欠落しているから、GAFAのような企業を日本から生み出せなかったのではないだろうか。
この圧倒的に足りない能力が、情報化社会の中で、非常に不利に働いていると感じてしまうのは偶然ではないような気がしてしまう。
著者の記す通り、データは集まれば集まるほど価値を生むことは間違いない。
それはまさに「共鳴」と言えるものだ。
1足す1が2になる話ではなく、音叉が共鳴するかのように増幅をしていく。
前述の1万人のデータよりも、100万人のデータの方が価値があることと同じである。
もちろんこれは、あらゆる事象にあてはまる。
つまり「あらゆることがデータ化される」ということなのだ。
まるでSFのような話であるし、これこそ本来日本人が得意とする世界観のはずであるのだが、どうもこの壁を乗り越えられない。
「もしかすると、今我々が見ているアナログの現実世界こそが幻で、本当はデジタルで仮想的に作られた世界なのかもしれない」
と言われたら日本のアニメやマンガで思い出せる作品がいくつもある。
日本人にこそ、この感覚があるはずなのに。
具体的にデータを取得して計算をぶん回して、社会にフィードバックさせて人々の行動が変わる。
またそのデータを取得して、計算して、フィードバックして・・・
それを頭の中でイメージする世界だけでなく、より現実として考えられるかどうか。
このインパクトを本質的に理解するかどうかは、これからの生き残りを考えると相当に大きなことだと思うのだ。
例えば「お金」はほぼデータ化されていると言っても過言ではない。
実体の紙幣や硬貨も存在するが、世界中でやり取りされているものはほとんどがバーチャルな数字のデータのみだ。
実際に何億円もの売買で、イチイチ札束を用意していたら無駄としか言いようがない。
札束を数えて確認する労力だけで時間を浪費してしまう。
同じようにあらゆる事象はデータ化されることで最適化されていく。
当然プライバシーは守らなくてはいけないが、人々の行動だって、GPSで全てトラッキングできたら社会全体が便利になることは間違いない。
人々の行動の混雑具合を計ることで都市計画は効率化されるし、電車の運行本数、自動車の通行経路、パンデミックの際の帰宅経路まで全てにおいて最適化された答えを導き出せるのは相当なメリットのはずだ。
当然これらによって、化石燃料など資源の消費も最適化される訳だから、地球環境にとっても優しいと言える。
問題は、データを保有し活用するのは「誰なのか」だ。
全部が全部国家で管理することでもないはずだ。
本書の終盤で出てくる話が非常に興味深かった。
データが共鳴すれば、農業にも大きな改革につながる可能性があるという話。
今はトマトの価値はある程度の品質のものを農協が一括で買い上げるということで、農家に安心を与えている。
しかし一口にトマトと言っても様々な種類がある。
トマトを肉で煮込むなら酸味が重要。
そのままサラダとして食べるなら甘味。
出汁として煮込む場合は旨味。
最後の料理方法によって、その特徴に合わせたトマトが必要だったのだ。
もし、農家が1で農協に販売したものが、市場で100で売られていたとしたら。
データ駆動によって、今後は農家が5で売り、市場価格を75で売買することが出来るかもしれないという。
または、農家が10で売り、最終の市場で150で取引されることもあるかもしれない。
これはものすごく意味があると思う。
当然農協が機能しなくなる訳であるが、その農協こそがトマト需要のデータを握る企業へと変貌すればよいのではないだろうか。
こうなると、国家が全てのデータを握る必要もないというのは合点がいく。
最後に本書では、データコモンズの記載があった。
これも考えさせられたし、著者の主張に極めて同意だ。
そもそも共有化するから、共鳴して価値が高まるのがデータなのだというのは、前述の通りである。
それでは、すべてのデータを共有化すればOKかというと、そういう訳でもない。
アラカルトで、各人が選択できる自由があることが大事なのだと説く。
その前提として、データコモンズに対し、社会契約のような形で合意が成り立つのかという点が興味深かった。
これは確かにあり得る。
社会契約論を説いたのはルソーだったか。
1762年という今から260年以上前の発行であるが、2020年代の今改めて「データを社会に提供することを国民は社会契約する」というのもあり得るのではないだろうかという主張だ。
いずれにしても、これから生まれてくる世代は、事実上データから逃れることはできない。
何なら生まれる前からデータが取得され、ゲノムも解読され、生まれた後もいつどんな行動をしたのかは全て自動的に記録されてしまう。
何なら自分自身の記憶よりも、詳細の正しい記録が残ってしまっている状態だ。
きっと過去の写真を見て思い出に浸ることもないのかもしれない。
それは、いつでも過去の詳細データにアクセスできるからに他ならない。
そういう人生を嫌だと言っても、これはしょうがない。
時代はテクノロジーの進化で変わってしまったのだ。
全てがデータ化される世界の中で「何が自分にとって居心地が良いのか」を自分で見つけていくしかない。
ある一定の年齢に達したら「データを提供しない」を選択できる状態にしておくことも大切だろう。
これこそ社会契約なのだとしたら、個人が選択したものに応じて、社会側は契約に見合った程度の便益を各人に与えることとなる。
これは、本書内での例示が分かりやすかった。
コロナ時期という前提で「自分は一歩も外出しない代わりに、データを提供したくない」と選択していたとする。
これでもし結果的に海外に行くことがあったならば、この個人はデータ提供していない訳なので、入出国時に足止めされて詳細な検査を受けて安全確認される。
この間、前後2週間ほど隔離されることとなる。
もしデータを最初から提供していたならば、過去のデータ履歴によって安全が確認されれば、簡易な検査だけで、隔離されずに即日行動が可能となるという。
これらのどちらを選ぶかは本人の自由とすることは十分に意味があるように感じるのだ。
今後このように選択肢は益々増えていくと思われる。
つまりデータのリテラシーを高めなければ、快適な生活を送れないということだ。
これは非常に重要なことだ。
結局我々は、身近なところから、データについて議論し理解を深めることをしなければならない。
そうしなければ、自分にとって心地よい生活水準を得られないのだと自覚すべきなのだ。
これだけ取っても、社会が複雑化していることを感じてしまう。
しかし、我々は逃れることができない。
結局、不利益を被りたくなければ、学び続けるしかないのである。
(2023/11/22水)


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