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《the 1st step》鋸山(1/14)


2024年最初は房総の山へ


 田園地帯を走るJR内房線に揺られながら窓の外を見る。先程総武線で走り抜けたマンションの立ち並んだ無機質な風景は、内房線に乗り換えて千葉駅を過ぎると一気に田舎の雰囲気が漂い出し、木更津駅を過ぎた頃には別の国に来たのかと思うほど長閑なものになった。木更津で生まれ、九十九里で育った僕はこの風景が好きだ。いくつになってもこの景色は懐かしい。
 雲一つ無い真っ青な青空に、飛行機が一機、また一機と現れては去っていく。都会と違って人工的な遮蔽物のない広い空を飛ぶ飛行機を見ると、スペイン巡礼を思い出す。それに、東京湾の向こうにこんなに大きく富士山が見えるなんて、幼い頃の僕はまだ知らなかった。本当に良い天気だ。

 今日はお店のお客さん達と山を歩く企画の日。2024年最初は房総の山、鋸山を歩く。予てより希望していた千葉の山にようやく来られたことに心も弾む。今回のルートは以下の通りである。

【出発点】JR浜金谷駅→鋸山登山口(車力道コース)→吹抜洞窟→鋸山山頂→東京湾を望む展望台→切通し跡→観音洞窟→岩舞台→百尺観音→地獄のぞき→日本寺→下山口(鋸山下山)→保田ばんや【終点】

約10km弱を休憩しながら6時間程度で歩くのんびりとしたコース。冬の房総の山は景色が素晴らしいから、皆でそれが見れたら最高だ。

鋸山について

 鋸山は標高329.5mで、千葉県で12番目に高い山とされている。高尾山(599m)よりも標高は低いのだが、海抜0メートルから歩き始めることを考えると意外とハイキングという言葉だけでは片付けられない登り応えがあるのも鋸山の魅力でもある。垂直に切り立った岩壁が露出し、ギザギザの山稜が大きなノコギリのように見えることが名前の由来とされている。三浦半島に連続した地質構造で、山全体が堆積岩※1(凝灰岩)で構成される。江戸時代から昭和まで房州石(金谷石)の産地として栄えていた歴史を持つ地域である。

房州石と日本寺の歴史紹介

 鋸山での房州石の採石は、安政年間に伊豆の石切り職人が始めたとされており、以後昭和60年頃まで上質な石切場として日本の近代化をインフラや建築面で幅広く支えてきた歴史を持つ。横浜港開発に伴った護岸土木材料として利用された他、靖国神社の塀下、早稲田大学の石塀、横須賀軍港、また東京の台場(砲台)や埼玉の草加煎餅の窯に利用もされる実用的な用途も兼ね備えていた。
 当時は石切りを行うのは男性、切り出した石を運ぶのは女性という風に役割が分けられていた。車力と呼ばれる女性たちは石を麓まで運んでいたそうだが、運搬作業が機械化される昭和35年頃までは一本80kgある石を三本運ぶ作業を一日三往復もしていたというのだから驚く。
 現代の機械化による建築文化の変化とコンクリートの隆盛によって房州石は衰退したが、当時のまま残された鋸山の石切場は、文化財としての歴史的な価値を後世に伝えるための取組みが今なお大切に続けられている。

日本寺〜世界一の羅漢霊場〜

 日本寺は聖武天皇の勅詔を受けた行基によって725年に開山された関東最古の勅願所※2と言われている。現在は曹洞禅宗で、かつては良弁僧正、慈覚大師、弘法大師も修業した古道場でもあるそうだ。
 本尊は薬師瑠璃光如来であり、日本一の大きさを誇る※3日本寺の大仏は一見の価値がある。同様に、日本寺に来たら必ず見学したいのが東海千五百羅漢である。鋸山の奇岩霊洞に安置された石仏は1553体あると言われ、これらは1779年(安永10年)から1798年(寛政10年)に至る前後21年間で、上総桜井(現木更津市)の名工大野甚五郎英令が門弟27名と共に生涯をかけて刻みつけられたもので、鋸山は世界一の羅漢霊場として海外からも知られている。


山行記録

台風復興後の山の、むかし道を歩く

要所でガイドのおもしろ説明が入る。

JR浜金谷駅に集合したメンバーは今回8名。そのうち1名は初参加である。昨年後半にお店で知り合って、今回参加してくれることになった。20代後半とメンバーの中ではかなり若手だ。
 高橋ガイドのオリエンテーリングもそこそこに、歩きだす。出発は9時20分頃。集落を抜けて、高速道路の下をくぐり登山口へ。登山口は【関東ふれあいの道コース】と【車力道コース】とに分岐しているが、今回はより鋸山の歴史に触れるということで車力道コースから歩くことにした。冒頭鋸山の説明でも触れたが、車力道はかつて石切り場で切り出した石を女性が運ぶための道だった。それを思いながら歩くと意外と勾配がキツい。こんなところを三往復もするだなんて現代では到底信じられない。

 現在の登山道は整備されていて歩きやすい。しかし、これは元々歩きやすかったわけではない。2019年の9月に房総を直撃した台風被害によって、鋸山も壊滅的な被害を被ったそうだ。それを何年もかけてボランティアの方々が人が歩けるようにと整備した。僕達は今日その道を歩いているわけだ。確かに登山道だけ見れば快適だが、横を見ると何メートルもある木がなぎ倒され、斜面がむき出しに露出している。流石にここまでは人の手は入れづらい。奇しくも車力道を歩くことで、石切の歴史のみならず、確実に山が自然災害にあったという歴史や、それを復興させようとする人の歴史にも触れる事ができるようになってしまった。

鋸山山頂〜東京湾展望台

復興後の登山道

 鋸山の山頂へは、石切り場へ向かう分岐から一度外れて山頂方面の分岐に従って進むことになる。岩肌に掛けられた階段を登り、尾根伝いにアップダウンを繰り返して歩いていくと山頂に至る。因みにこの分岐後すぐの階段は絶壁階段というらしい。とんでもなく急な階段で、ここで上から人が転がってきたらたちまち巻き添えを食らって全滅してしまうだろうな。
 休憩を挟みつつ、11時頃に鋸山山頂に着いた。この山の眺望は決して絶景と言うほどではないが、「房総低名山」と書かれた山頂標識は堂々としたものである。石切り場や日本寺、地獄のぞきを見に行く場合、山頂から先程の絶壁階段を下り分岐まで引き返さなければならない。山頂があって、その先はまた別の山になる。これを間違えると房総の低山とは言え道迷いになりかねないから注意が必要。
 石切り場に行く前にちょっと寄り道。東京湾展望台に立ち寄る。ここから見る景色は、低山と言えど侮れない。というより、一見の価値ありの景色に出会える絶景スポットだ。

東京湾展望台より

 今日の絶景も本当に良い。快晴無風だから海も凪いでいる。静かな海を船が行き交い、波紋を立てる様子が絵に描いたようで美しい。遠くを見れば富士山がはっきりと見え、その奥には南アルプスまで見えた。手前には箱根、天城が連なり、更に手前には三浦半島が見える。ここから見ると、三浦半島の起伏までよくわかる。北側には筑波山まで見えたし、南側には伊豆大島、更には三宅島まで見える。ここまではっきりと全てを見渡せることも珍しいと思う。やはり、冬の房総の山は最高だ。
 個人的には低山の良さの一つは、山と里の距離感の近さにあると思う。気軽さという点でも良いが、やはり山の上から人の営みが見えるというのが良いのだ。安心する。山深くまで潜り込んで俗世間から離れる感覚も良いが、里山の安心感は里山にしかあり得ない。そして、山にいながら海を見おろせるというのも房総の山の良いところだ。下山すれば、美味しい海鮮だって待っているし…。

石切り場〜地獄のぞき

まるで遺跡に迷い込んだかのような

 絶景を堪能後したら、今度は石切り場を抜けて日本寺へ向かう。切り出された後の山容はまるで古代遺跡の様だ。ところによってつるはしで削られたような跡もあれば機械で切り出された跡もある。岩舞台に置かれたままの機械などまるでそのまま時が止まってしまったようで、自分が映画のワンシーンに入り込んだような気持ちにさえなる。

岩舞台。左奥には「安全第一」と彫られている。

 石切り場を抜けて石階段を登ると、日本寺北口管理所に着く。ここで参拝料700円を支払って入場する。鋸山自体が、日本寺の境内となっているのである。ここを過ぎると、有名な百尺観音と地獄のぞきが待っている。

地獄のぞき

 【地獄のぞき】とは鋸山の断崖絶壁に突き出した展望所のことで、何と高さが約100mあるという。下を覗き込むと緊張する。高所に弱い僕はどうしたって「落ちたらどうしよう。」という恐怖感がよぎるが、先程の東京湾展望台と同様に景色は最高だ。13時頃にここへ到着し、全員で記念撮影。しばらくこの絶景を楽しんで、次の日本寺見学へ向かう。

日本寺の東海千五百羅漢

千五百羅漢

 1500体の羅漢像と聞いて想像できるだろうか?有名な京都の三十三間堂に置かれた仏像の総数でさえ1032体という。日本寺の千五百羅漢、正確には1553体あるとされる羅漢像は、「他に比べるものがない」と称された中国の懐安大中寺の八百羅漢をしのぐ世界一の羅漢霊場なのだそうだ※4。ちなみに「羅漢」とは「阿羅漢」の略称で、古代インドで「尊敬に値する人」を意味するサンスクリット語に由来する。厳しい修行の末に釈迦の教えを正しく理解し、もはや学ぶことのない境地に達した僧侶を意味する。 そんな高僧が日本寺の参道に所狭しと並べられている。一人一人表情も違うのだそうだ。こういう時「自分に似た顔の像がある。」と良く言われるが、これだけいれば一体くらい自分に似ているような気がする像があってもおかしくはない。

首がなくなってしまった石仏

 千五百羅漢の大きな特徴は、ほとんど全ての像が首を破壊されていたことだった。皆一様に首が砕けて付け直されている。中には復元不可能なものあるようで、それらは代わりに石が乗せられているか、あるいは顔が無くなってしまったものもある。これらは明治期の廃仏毀釈運動によるなのだそうだが、以来荒廃しきったまま捨て置かれていた石仏を現代になって復元させようという「羅漢様のお首つなぎ」という運動も行われている。一体一体見ていると、時間がいくらあっても足りない。ずっと見ていたいほど石仏の作りは精巧で表情も豊かだったが、そろそろ皆の「ビールが飲みたい」欲求が高まってきたこともあり、見学もそこそこにして切り上げ足早に下山に向かった。

打ち上げ〜保田【ばんや】

保田駅までの田舎道を歩く


 下山して保田駅に着いたのは15時頃だった。鋸山から保田までの田舎道は僕が子供の頃に通った通学路によく似ている。田畑に背の高いススキという景観は、外房も内房も変わらないようだ。畑に菜の花が植えてあるのを見つけた。もう少しするとあれが黄色い花を咲かせる。そうすると、春がもうすぐやってくる。
 【ばんや】は、保田駅から更に港方面へ10分ほど歩いたところにある飯屋である。この辺りじゃ名の知れた地元の名店なのだと思う。「保田で海鮮を食べるならばんや。」と評判だ。この店の素晴らしいのは、とにかく安くてデカくて美味いこと。名物と書かれたイカのかき揚げもアジフライもとにかくデカい。「時価」と書かれた金目鯛の煮付も、一尾付でこんなに安いのかと目を疑うほどだ。刺身の盛り合わせだって切り身がデカい。田舎の刺し盛りってこうだよねというお手本のような盛りで出されると、「これこれ、これだよね。」と思わずニヤッとしてしまう。皆乾杯はビール。その後は日本酒をやったりビールを続けたりと各々時間いっぱいまで楽しんだ。

いかのかき揚げ。四個付け。提供が早い。
海鮮丼。カジキ、黒鯛、赤鯖、太刀魚、ワラサ。
鯖の油淋唐揚げ。「丸々一本かよ!」とツッコみたくなる。

総括

 鋸山は2019年の台風被害によって甚大な被害を被った。日本寺の参拝のみならず鋸山という山域に足を踏み入れることすらままならないほどだったそうだ。日本寺の歴史を知ると、この山域は荒廃と復興の歴史の繰り返しなのだと分かる。
 もちろん、何もせずに自然に復興というのはあり得ない。復興させるのは人の想いと行動の力である。「このままではいけない。」「大切にしなければ。」と想う気持ちが、登山道にも千五百羅漢にも命を吹き込むのだ。人一人の力など微々たるものかも知れないが、結集すれば大きな力となる。「千葉には山がない。」と言ってしまうのは簡単だが、低山に目を向けてみれば実は素晴らしいものだと発見することも多い。千葉の魅力をお伝えしたい僕としては、そういったことを出会った人達にちゃんと伝えることから取り組んでいくことも大切だと感じた。

 しかし、いい景色だった。お腹もいっぱいだ。帰りの内房線も、君津から東京までノンストップで帰れるという意外な利便性。これは、時期を変えてまた遊びに来ても良いかもしれないな。
(了)

登山も安全第一で

《注釈・備考》
(※1)堆積岩とは、礫•砂•泥•火山砕屑物•生物の遺骸等が、流水や風の作用で堆積して固まってできた岩石(※2)勅願所とは、天皇の命令によって国家鎮護、玉体安穏等を祈願する社寺のこと。
(※3)日本寺大仏は総高31.05m/御丈21.3m、比較として奈良東大寺の盧遮那仏さまが総高18.18m/御丈14.85m、鎌倉高徳院の阿弥陀如来さまが総高13.35m/御丈11.312mとされている。
(※4)日本寺のパンフレットには《中華民国懐安大中寺の八百羅漢》とあるが、どうも大中寺は現存しないようだ。歴史書に「かつて在った」という程度の記載に留まるようで、ネットで少し調べた程度では判断できない。釈然としないが、1553体の羅漢像は他に類を見ない事は間違いない。

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