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女装を嗜む井川さん(第1回):長男・春樹の場合

井川春樹の生活は不規則だ。


スウェット姿でうつぶせになった状態で目を覚ますと、カーテンからは日がさしていた。
「あ、しまった。寝ちゃってたんだ…。今何時なんだろ。」
握りしめたままになっていたスマホを見ると、午前11時32分と表示している。
「30分くらい寝ようと思ったのに、爆睡しちゃったなぁ…。」
学生時代なら徹夜の追い込みなんて日常茶飯事だったし、朝帰りなんてしょっちゅうだった。しかしここ数年は、朝帰りなんてすれば身体がまったく機能しない日もくるようになった。
(…これも30代のアップデートってやつ?)
そんなことを思いつつ、黒髪のロングヘアをゴムで束ねて自室を出た。


「春樹兄ちゃんいたんだ。」
階下のリビングには末弟の雪也が居り、スマホゲームに忙しそうだった。
「あれ、あんた今日授業ないの?」
「今日は午後からだからもうちょっとしたら出るよ。」
ろくに春樹の顔も見ず、雪也はスマホに夢中だ。
「昨日いつ帰って来たの?」
「終電で帰って来たから2時前くらいかな?兄ちゃん2階の電気全部つけっぱなしだったよ。」
「あぁ、ごめんごめん。仕事してたら寝ちゃってさ。」
ゲームをしながら器用に受け答えする弟に感心しつつ、春樹は冷蔵庫の麦茶を一気に飲みほした。
「春樹兄ちゃんはいいよね。家で自由に仕事できてさ。髪型や服装も関係ないじゃん。」
春樹は何を突然言っているんだろうと思った。
「この前大学で就活のガイダンスがあってさ。『男性は清潔感のある短髪にダークスーツでキメよう!』とか言うの聞かされて既にやる気ゼロだよ。」
雪也は大学3年生。電車で都心の大学に通っている。ダークブラウンのミディアムヘアに、くりっとしたまるい目。中性的な顔立ちを活かし、ユニセックスなファッションを着こなしている。
「髪型とかいう前に仕事できればいいじゃんって思うんだけど。だいたい就活してる先輩見てるとみんな同じ格好でつまらないなって思って。」
ぼやき続ける雪也に、春樹も頷きながら
「確かに説明会の会場からリクルートスーツでぞろぞろ歩いてるの見ると、結構びっくりするよね。」
と答えた。そして俯いてスマホを見つめる弟に、
「髪のばすと切りたくなくなるのもわかるし。」
と加えた。
「でしょ?!春樹兄ちゃんくらい伸ばせたらいいのにとか、見た目の格好気にせずできる安定した仕事を見つけたいよ。」
ゲームが一段落したのか雪也ははじめて春樹の顔を見て話した。
春樹は正面を向いた雪也の肌つやの良さに、(やっぱり20代は違うなぁ)と思いながら、その言葉をぐっと飲み込んだ。
そして
「そういう仕事ができるスキルやツテをみつけることだね。」
と言い、さっさとシャワーを浴びにいくことにした。


井川春樹は31歳、フリーランスの編集者である。大学卒業後、小さな出版社に入社し、編集プロダクションでの勤務を経て27歳で独立した。納期に合わせて仕事をすすめるため、土日や昼夜関係なく仕事をすることもしばしばだ。それでも会社のしがらみもなく、自分のスキルとペースで仕事ができることには不満もなく、むしろ充実感さえあった。
春樹も弟の雪也同様、小さい頃から女の子と間違えられる柔和な顔立ちで、「かわいい男の子」と言われ続けて育ってきた。そのせいか春樹自身もなんとなく子供の頃から、かわいいものに対する興味が強かった。女性になりたいと思うことはないけれど、「あんなふうに綺麗になりたいな」という憧れを抱きだしてからは、自分で化粧を覚えて女装を始めた。
仕事でも服装や髪形をとやかく言われることもないため、女性のヘアスタイルを真似て伸ばし始めた髪も鎖骨まで至っている。
違和感もなく、20代はとにかく綺麗な女性に憧れて女装をしていた。そして自分の容姿を活かせるという面でも女装を楽しんでいた。
しかしここ最近は、そんな自分の容姿に違和感を覚えるようになってきた。


「あ、こんなところにまた髭生えてる…。前はなかったのに」
洗面所の鏡を見ながら、慌てて顎から飛び出た一本の髭をピンセットで抜く。
もともと髭が薄く、これまで髭が気になっても、毛抜きで気になる箇所を数本抜けば終わる程度だった。しかし最近では毛抜きの頻度も増えているように感じてきた。
「肌もちゃんと寝ないとむくんでるし。化粧ノリも悪くなるなぁ。」
以前よりも鏡とにらめっこする時間も長くなった気がする。

「こんなんじゃ女装いつまでできるんだろうか考えちゃうな。」
先ほど見た10歳下の弟を思い出し、つい年齢的な羨ましさも感じてしまう。しょうがないこととは思いながら、春樹は脱衣かごにスウェットを脱ぎすてた。

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