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すばらしき他人

こんにちは。
ohanaです🌼

お久しぶりです。お久しぶりすぎて自分から出てくる言葉たちがぎこちないです。ああ…


春、追い越されました。
ピンクが緑になって、やっと。ただいま。


タスク溜め込みによる生活の乱れを繰り返してたまるか!と新学期から身を引き締めて過ごしているのですが、その分noteになかなか手をつけられず。

あとは、このブランクによって自分の好きな日本語や繊細なことばが失われてしまっている気がして怖かったです。それを目の当たりにしたくなくて少しの時間とこころの余裕が生まれても気付かないふりをして、避けて通っていました。弱い自分を見つめるのはいつでも難しい。


そんな私ですが、なんだか空いた夕方〜夜を素敵に過ごせた今日🌙
noteと大好きな本たちからたくさんの感情と栄養を吸収して、気分の良いまま先の課題まで終わらせて、るんるんなので、そのままえいやっとこの記事を書き始めました。

実はタイトルだけは今週の月曜に書いていて、いつ本文に取り掛かれるかな〜?わたしー!と思って取り置きしていて。
今なら書ける、というか、書きたいきもちなので書いてみます。



"すばらしき他人"

人は一人では生きられない、と唱えられる今日。
一人の人生だけを見ても、様々な形で人との繋がりがあって。

良いものも悪いものも、もしくはそのどちらにも当てはまらないものまで、そこから得た視界や感性で、わたし、ができあがる気がします。
(でも出来上がらなくてもいいと思っています。)

恋人、友達、家族、知り合い、先生、etc.
近かったり遠かったり、深かったり浅かったり。物理的にも心理的にも、距離だけでは測りようのないその関係性は、言葉で定めてしまうのが惜しいことすらあります。


例で言うと、「親友」ってなるよりも言葉にできるようになることの方がよっぽど難しい気がします。親友だね、が何かふきだしのように浮いている場合はまた別です。そもそも、私たち友達だね、とは小学生を超えるとあまり言わないじゃないですか。「あなたは私にとってこういう存在なんだよ」とわかりやすく、隠さず、あきらかな言葉で残すのってとても難しい。というか、その責任の重みに気後れしてしまう。(小学生すごい)

きっと、「親友」の定義なんて人それぞれだし、わたしとあなたが親友だと思えるタイミングが全く同時なわけはない。いや同じじゃないからこそ上手くいくふたりだったりするのだけれど。
それでもやっぱり、いくら近い人でも少しは顔色を伺っていて、その中でその関係性を単純すぎて複雑な言葉でまとめてしまうのは違和感があったり、怖かったり、いっそのこと面倒に感じたりしてしまう。


しんゆう、も親友だけではなくて、心友、真友なんかもあったりしますよね。親しい友、よりも心の友、の方がしっくりくることもあるでしょう。
真の友なんて言われちゃうと、親友は本当の友達じゃないの…!?なんて漠然ともやぁっとした不安を感じてしまう私は、おそらく考えすぎです。はい。
というか、ここまでの内容全体、私の気にしいすぎるところが顕著に出てしまっていて、卑屈すぎだぞーうじうじすんなーって思わせてしまっていたらごめんなさい。


私だけで言えば、この性質で困っているわけではなく、ちゃんと人と向き合える私のことは好きです。でもやっぱり、このせいで周りに申し訳なく感じることは多々あって。
というのも、私のことを信じてくれる・大切にしてくれる人たちを、同じように信じて、心を開いて向き合えるようになるまで、人よりかなり時間がかかってしまうのです。自分の弱いところを、自分以外のひとに見せる、見えるようにする、ことに抵抗があって、決して自分の大事な人達を信頼していない尊敬していないというわけではないのですがどうにか自分の中だけで完結させようとしてしまいます。

ここ数年で素敵な大切な人達に出逢えて、少しずつですが心を開いて周りに頼ること、ができるようになりました。時間がかかりすぎる私の側に、ずっといてくれて、支えてくれたみんなにはありがたい限りです。

弱いところを見せても大丈夫だ、って思わせてくれた貴女達、貴方のおかげだよ。本当に、ありがとうね。誰にも見つからないかもしれないけれど。



さて、なぜこのタイトルにしたか、というところなのですが。
先日、ふと思い立って一人映画デビューしたのです。
その理由はいくつかあって、一人で感情に浸りきりたかったこと、美しいものが見たかったこと(視覚的にも心情的にも)など。

映画を観た数日前に、恋人との約束が上手くいかず、連絡不足で少し揉めてしまい、それ自体はしっかり話し合って解決したのですが、相手に依存とまではいかなくとも、もう少し自分らしく感性を刺激されたりする活動がいるなあと感じまして。そこから、「なんかフランス映画が観たい。」に繋がりました。

フランス映画って他と比べるとあまりドラマチックだったり華やかだったりはしないし、エンディングもバーっとすっきりするようなものじゃなくて、観た側はふわふわと、時にはもやもやと感情が浮くようなものが多い、と聞きます。聞きます、というのはそもそもそれを母から聞いて、なんとなく避けてきた私なのでフランス映画に関しては無知なのです。今まで観たのもアメリくらいで、その記憶も曖昧。

ですが、ふと見つめ直してみると、「あれ、もしかして私の好みに合っているのでは?」と思い始めまして。

私が人生で一番好きな映画が”La La Land”なのですが、この作品エンディングが賛否両論じゃないですか。ここまでキラキラしたものを描くのなら、みんな幸せで終わろうよ、という感想も確かにわからないものではないです。でも、私はこのエンディング含めてLa La Landのストーリーが大好きです。あの、色々な空気、時間、思い出を全て詰め込んだ先の、あの目線がなんとも愛おしい。最高の幸せ、を描いているのかは分からないけれど、あれが、あれくらいが、ちょうどいい。

何かを目指して追い求めて生きると、何もかもが理想通り叶うわけではなくて、きっとどこかしら妥協したり諦めたり、小さな頃の夢のようにきらきらとさせたまま心の中で眠らせないといけないものがある。全ては叶わない。
私自身、ひとの人生について語れるほど長く人間しているわけではないですし、先にこの文章を読み返したら、浅っ…って思うかもしれません。でもまあ、それはそれでいいか。

全てが美しいままではいられない、人間くさい生き方が何よりも美しいと思う。


どんなに大切なひとでも、自分と自分以外、と捉えれば、結局は他人。排他的な意味で言っているわけではないのですが、わたし、が付き合っていくたくさんの他人の中で、特別に心が動かされるような出逢いがあったり、一緒に時間を過ごしてゆく中で、相手が自分や自分の人生にとって大切な存在になるのだと思っています。

家族でも、友達でも親友でも、恋人でも、みんな違う生き方をしてきた自分とは違う人だから、末永く上手くいくかなんてどんな時でも分からない。
自分の当たり前が必ずしも通用するわけではない自分以外の人と、どうすれば寄り添い合って、分かち合えるのだろう。

偶然コミュニケーションが上手くいった他人と、そうでない他人がいるだけだったら。


いくら考えても、答えらしい答えは見つからない。私の考えとしては、どんな段階を積んでいく関係性にせよ、そこに違いがあることをお互いが理解して、許容できる心のスペースと余裕が必要だと思っています。

相手が自分と違うことを考えていても、納得しなくてもいい、それは違うと貴方が感じてもいい。ただ、違いが見えた途端、その相手を別の存在のように、敵のように感じてしまったら、それ以上深く関わりあうことはできないと思う。自分と100%同じ、でできている人なんていなくて、多少の違いや差が必ずある自分以外のひと、他人、にどれだけ真っ直ぐ向き合えるか、が重要なのだと思っています。

私と同じ、を他人に期待してしまっては、自分の持つものの外には目を向けられない気がする。


映画に触れていないですね、すみません。
授業終わりから1時間以内で電車を乗り継いでバタバタと早足で劇場に向かい、ガラガラの客席から観た作品。


『午前4時にパリの夜は明ける』

不安そうな登場人物達が、自分の心の隙間を埋めるように、お互いを求めていく姿が、印象的だった。

「家族」
が大きなテーマなんだろうけれど、家族だけでなくとも、タイトルがつくような人との繋がりはどんな形にもなれるんだろうな、なっていいんだなと再度考えさせられた。

血のつながりも、もしかしたら血の繋がった他人、かもしれない。と言ってしまうと道徳も何もないようなつめたい言葉に聞こえてしまいますが。一番意味があるのって、心の底から相手に対してどう思えるか、だと思うんです。


道を外してしまったとしても、その弱さも受け止めて側にいてあげられるか。犯してしまった過ちも、その人の人生の一部として目を逸らさずに向き合えるか。

ちゃんと考えようとすると心が沈んでしまうようなトピックですが、でもそれがきっと「家族」とかの重みなのかもしれない。人間ですね。


"すばらしき他人"はラストシーンからの引用です。この言葉がとっても印象的だったから。



私の大好きなYoutuberさんに、HARUKAさん、というシアトル在住のとっても素敵な日本人の方がいらっしゃるのですが、その方が以前の動画の中で
「人間やってんなあ、と思います」
と、一昔前の日本語の作家、芥川とか、の作品について仰っていて。

人間やってんなあ、が妙にしっくりくるんですよね。人間を動詞にしてしまう、ってどういうことなんだろう、と考えるととても面白いです。人間、という特徴を濃縮するようなものだから。

人間やってる、はきっと綺麗なものではないです。ドロドロしていて、鬱陶しくて、面倒臭くて、煩わしくて。目を向けられないほど醜いこともあるはず。


でもそれを題材として作品に描くと美しく映るのが面白いところ。
一番美しくないようなものが、美しいんです。
なぜでしょう。歪んだ人間くささは、自分の人生の中に喜んで迎え入れたいようなものでは決してないのに、それでも美しいと惹かれてしまう。

ここに関してはあまり納得のいく答えが出せていないので、皆様是非コメント等でお聞かせいただけると嬉しいです。
ほんと、なんでだろう。不思議不思議。



そんな訳で、一人映画デビューでフランス映画を選び、人間やってんなあ、を求めた私の備忘録でした。

さすがはフランス映画、初っ端から色彩があまりにも綺麗すぎました。緑と紫の使い方って本当にセンスが問われますね。この映画は人間関係ドロドロ系ではなく、どこか静かな生活のなかにある人間らしさ、という感じです。まだ上映中なので、是非。

もし観たよーという方がいらっしゃったらご意見ご感想いただけるととーーーーーっても喜びます。色んな人から、どう感じるのか聞いてみたい。



久しぶりのnote、あまりにも長くなってしまいましたが、ここまでお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございます。

緑に雨が滴る前に、また戻ってきます。
それでは。


ohana.


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