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うたた寝

(*本編は最後まで無料でお読みいただけます)

隣のデスクでうたた寝を始めてしまった小田島さんを起こさないように、分厚いASKULのページをそっとめくった。寝息がここまで聞こえてくる。

ひとが本当に寝入ったかどうかは、だいたいは呼気でわかる。
「すう」と深めに吸ったあと、「すっ」と息が勢いよく吐き出されると、そのひとは眠りに落ちている。
私はそれを、こんな風に隣で居眠りをする小田島さんの寝息で知った。

今日もオフィスは午前中から人が出払っていて、この空間には小田島さんと私しかいない。ほぼ無音の閉鎖空間で、小田島さんの寝息だけが息づいていた。

小田島さんは昨年中途採用で入社した広報営業部の社員で、私はもうここのアルバイトは長いけれど、彼は明らかにアルバイトの私には気を緩めている。

部長がデスクにいるときは、電話が鳴るとすぐに手を伸ばすけれど、いないとアルバイトに任せっきりだ。それはそれで人間らしくて、小田島さんのことが私はきらいではなかった。

小田島さんには、小田島さんを好きな女のひとがいるらしい。

彼はいつも、私とは反対側に顔を向けデスクに突っ伏し気味に寝てしまうのだけれど、脇に置かれたままのスマホ画面が光り、つい身を乗り出して覗き見てしまった。

📩ミタ印刷さん
金曜日のお花見&飲み会、必ず参加でヨロシクです🌸
リマインドでした^ ^

「ミタ印刷さん」は、うちに出入りしている業者さんで、いつも若く美しいハツラツとした営業担当の女性が訪ねてくる。
今の担当さんは、私がこの会社に来てからすでに三代目のミタ印刷さんで、野嵜さんという。歴代のハツラツとした顔写真入りの名刺が年々増えていく。

あれは、定年退職した宇部さんに代わって小田島さんが入社してすぐの頃だった。ミーティングスペースから、初めて聞く女性の甲高い笑い声がオフィスに響き渡ってきた。

野嵜さんだ、とすぐに思った。
その日、宇部さんの後任である小田島さんに挨拶に来ていた野嵜さんが、やけに楽しそうに、それはもう嬉しそうに、小田島さんの言動ひとつひとつに笑ってこたえているに違いなかった。

分かりやすいよ野嵜さん。宇部さんや、私に、そんな声を聞かせてくれたことなんて一度もないじゃない。

そんな三代目ミタ印刷の野嵜さんが、どうやらこの春、ノリノリで小田島さんを「お花見&飲み会」に誘っているようだった。

「ん……」と小さな声をあげながら小田島さんが顔だけ寝返りしてこちらを向いた。袖口に押しつけた頬に寝痕がうっすら付いている。

と、すぐにまた「すう」「すっ」と寝息が聞こえてきて私は、彼の顔を、まぶたや鼻すじ、口元を遠慮なく見つめた。
口の端がぷくりと子どもみたいに膨らんでいて、そこを人差し指で押し込めたい衝動に駆られた。

せめて触れられたら───。
私はすこしずつ、すこしずつ彼の顔に指を近づけた。

すると小田島さんと目が合った。急に彼がぱちりと目を開けたのである。

寝ぼけているのか、それとも少し前から覚醒していたのか……。何も言わないままこちらを見つめる彼から視線をそらせずに、私は伸ばしかけた指を引っ込めることができないままに彼と見つめ合った。

「沖野さん」

口を開いた彼が私の名前を呼ぶ。

「花見、もう誰かと行っちゃいました?」

そう言って彼は私の指を見た。

だから私は、私はその指を、小田島さんの頬のふくらみに押し付けて言った。

「金曜の夜なら」

ふっと小田島さんが笑って、私の指が彼の口元にさらに食い込んだ。


  

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今回の特典は、『曖昧な恋愛関係』について、つきはなこのエピソードを創作漫画にしてまとめました☆

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