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音楽を好きだということ(※末尾にオススメ音源有り)

数年前、わたしは、音楽を作ったり演奏したりするのをやめ、音楽に関わる仕事も辞めた。それ以来、音楽を聴くことからも遠ざかっていたが、最近、同僚や知人の勧めもあって、また音楽を聴くようになった。
しかし、「音楽を聴くようになった」とは、どういうことだろうか。
音楽は、わたしたちの日常にひっきりなしに流れている。音楽を流していない商店はほとんどないし、音楽を聴かずに見られる映画やテレビ番組もほとんどない。聴きようによっては、電車や道路を走る車の列も、立派なビートを刻んでいる(そもそも、習慣や慣例とともにあるわたしたちの日常感覚がビートなのだ)。つまり、わたしは、最近もその前も、ずっと音楽を聴いているはずなのだ。音楽は、意識しようがしまいが、わたしの耳に響いている。
「音楽を聴くようになった」とは、要するに音楽に耳を傾けるようになった、ということである。音楽を何らかものの背景、要するにBGMとして捉えるのではなく、音楽そのものをそれだけのものとして、その実在性を捉えるようになったということだ。音楽は、対象の表面に張り付いて日常を反射させる ー 例えば色彩のようなもの ー ではない。音楽は、常に消え去るものとしてのハイデガー的生命の実在性を、実践的にわたしたちに伝えている。わたしは、そのようなものとしてまた音楽を聴くようになった、ということだ。
しかし、音楽を好きだということは、どういうことだろうか。それは、もちろん、芸能が好きだとか、ファッションが好きだとか、ライブ会場まで足を運ぶことが好きだとかいうことではない。音楽を好きだということは、音楽そのものを好きだということだ。では、「音楽そのもの」とは、何だろうか。音楽とは、音である。それは、何らかの形で聴取可能なものとして、音が鳴っているということだ。しかし、音だけで音楽は成り立っているわけではない。音楽を成り立たせるためには、音と、それが鳴っていないときの沈黙が必要である。音楽は、沈黙のある場所にしか鳴ることができない。と言うよりも、音楽は沈黙を含めて音楽なのだ。音の不在としての沈黙があり、沈黙の不在としての音がある。音楽は、ジョン・ケージがそれを指摘するずっと前から、その二つの共同作業、それらによる場の奪い合いによって成立している。音は、それぞれに固有の長さ、色、高低を持ち、それぞれが沈黙と対峙しながら、幾重にも重なりつつ、その音が鳴る時間と空間を侵食するのである。
音楽を好きだということは、音と音の不在の相互作用、それらが生み出すシークエンスが好きだということに尽きるのではないことが、さらにここで明らかになる。音楽を成り立たせるために不可欠なものとして、音楽は、時間と空間を「所有する」のである。
音楽は、それぞれ音が持つ固有の時間によって、わたしたちの通俗的な時間了解と異なった時間性を提示し、通俗的なそれを「侵食する」。また、音楽は、わたしたちが日常を過ごすための場所としての空間を、全く別の意味を持つものとして「侵食する」。
音楽は通俗的な時間と空間を「侵食する」、あるいは、「奪い取る」。音楽は、自らの所有する固有の時間と空間のために、わたしたちの日常に覆い被さり、わたしたちに、わたしたちの見慣れたものとは別の世界を開示する。音楽とは、それ自体がパラレルワールドなのである。
すなわち、わたしは、そういうものとして、わたしたちの世界とは別の世界をわたしたちに開示するものとして、世界の多層的な可能性として、音楽を好きだ、ということだ。
音楽の時間は、常に遡行することによって、それが音楽だということを知られる。したがって、音楽の時間は、常に未来に向けて開かれている。音楽の次の音は、まだ音楽ではない。音楽は鳴りながら音楽となっていく。今まさに鳴らんとする音は、音楽ではなく、時間と空間を所有する一つの世界による現世の侵食である。音楽とは、この世界の別の世界の可能性が、現世における存在の形式として名前をつけられたものである。つまり、わたしはそういうものとして、音楽を聴くのである。

最近のお気に入り音楽

KING GARBAGE
https://youtu.be/c8unPdPK72E

NATHAN BAJAR
https://youtu.be/MS6nf_ykhps

ARLO PARKS
https://youtu.be/ikwBBNnn2gI

CLEVER AUSTIN
https://youtu.be/ZYOBxc3x1dQ

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