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我が隣人『ぜんぶ社会のせいだせいだ星人』

先日、わが社会実験室 踊り場による展示企画『ぜんぶ社会のせい』の感想画として、来場された方が描いてくれた作品『ぜんぶ社会のせいだのせいだ星人』。その批評文を書いてみました。以下本文です。

その宇宙人の特徴は、どれも地球人の中に見つけられるものである。目、指、襞、筋、血管、性器、誰か(何か)を何かの所為にすること。その宇宙人は他人ではない。彼は明らかにわたしたちの仲間である。しかし、わたしたちは、常に自分たちの外部を、すなわち、「宇宙人」を、あるいは、もはや倫理的に使われなくなった言葉としての「外人」を必要としているのではないだろうか。

指差すことは、①何かを見(つけ)ること。②何かを他者に指し示すこと。③対象に何かを付与しようとすること。④対象を、共有し得る何かとして確立しようとすること、である。何事も、指差されること無しには存在することはない。それは、常にわたしたちの存在をわたしたちの外側で支える理念的な何か(something/affair)なのだ。

あらゆる名前は、存在そのものではない。「コップ」はコップの存在ではない、「スマホ」はスマホの存在ではない。しかし、それは存在と密接に関わり、存在を下支えする何かからその力能を得ている。

「原因=所為」は、「結果」に介入する。「原因=所為」が語彙としての権利から、「結果」よりも時間軸において先立つものであることの権利を主張するのとは裏腹に、実際には「原因」が「結果」に先立つことはあり得ない。しかし、「原因=所為」は、繰り返しの力を利用することによって、「結果」の前に立つことを志向する。要するに、二度目から、「原因=所為」は「結果」より先に到来するものであることを主張する権利を得る。しかし、実際には何事も決して繰り返されることはない。繰り返しとは、その力能を得るために常に抽象的であろうとする。「原因=所為」とは、「結果」から遡ることによってしか見出されることのできない後出しジャンケン的な「仮想─過去」なのである。そこには、政治的な何かが反射reflectされている。

「所為」とは、常に結果が出ることである。それは「原因=所為」の方程式を否認する。「所為」とは、休むことなく原因のない結果が産出され続けることである。それは固定されることなく動き続けている。したがって、「所為」とはそれ自身独立したものとしての権利を持っている。すなわち、それは自動詞であって、目的語を必要としない。「[何か]の[所為]」とは、したがって限定用法である。それは常に外側から介入する。それは、宇宙人がよく持っている、相手の動きを止める光線銃のようなものを使用するのだ。その光線銃とは、指差すことによって発射されるのだ。何かが何かであること、その存在を決定するのは、その何かの内的な作用によるものではない。何かが何かであることを決定するのは、常に別の何かである。この「別の何か」もまた、「別の別の何か」によって決定されている。あらゆる事物は、レーモン・ルーセルの『新・アフリカの印象』のように無限に開かれる括弧を持っている。最終的な決定を下す力は、この無限の外からやって来なければいけない。すなわち、それは「宇宙人による指差し」なのである。

この宇宙人『ぜんぶ社会のせいだのせいだ星人』は、二つのことを示している。一つは、「せい(所為)」とは、せい(所為)が無限に後退していくものであるということ。もう一つは、存在とは外部から指差すことである、ということである。しかし、その宇宙人は、実際にはわたしたちの隣人である。彼は常にわたしたちと共にいて、わたしたちと同じものを見て、同じものを指差している。

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