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映画『バービー』がよびおこす混乱と希望

私が映画『バービー』を観たのは、公開当日にさまざまな国の人々が集まる六本木ヒルズの劇場だった。
思い思いの"Barbiecore" (バービーにインスパイアされたファッション)に身を包む人々をみていたら、私もまたバービーなのかもしれない、という気分になってきた。崩れたメイクも気にならなくなって、サンダルで街を闊歩して帰った。

公開前から何かと社会的な議論を呼んでいた作品なので複雑な思いを抱えつつ、張り切って観に行ったら、フェミニズムのこと、俳優や監督のこと、キャラクターたちのこと、ピンク色やファッションのこと、性や生死のことなど、いろいろなことを考えすぎて頭を整理するのに2週間かかってしまった。
語っても語り尽くせない映画で、長くなってしまいネタバレも含むけれど、私なりの切り口で考えたことを綴ってみたい。


バービーによる、バービーのための世界!?

ヴィヴィッドなピンクのプラスティックでできた、ファンシーなバービーランド。
そこでは、たくさんの「バービー」たちが毎日幸せに暮らしている。
多様な個性をもつ女性のバービーたちは、大統領やノーベル賞受賞者、医者、さまざまな職業に就き、バービーランドという世界の主導権を握っている。
その中でこの物語の主人公は、マーゴット・ロビー演じるいちばんスタンダードな「定番バービー」。金髪碧眼・白人・八頭身というステレオタイプ的なファッションドールとしてのバービーである。
一方で、ライアン・ゴズリングが金髪の「ケン」に扮している。定番バービーのボーイフレンドであるこのケンは、あくまでもアクセサリーのような存在。他にもさまざまな「ケン」がたくさん暮らしているが、どのケンもバービーたちのお飾りとしてつくられたにすぎず、職業なども設定されていない。
このバービーランドは、私たちが生きる現実にはびこっていた「男性が主導権を握り、女性がお飾りのような役割を求められ、本来の実力を発揮できない社会」を男女逆転させて誇張した世界になっている。

そんな、バービー達にとって幸せな暮らしが永遠に続くと思われたある日、突然その幻想の世界が壊れはじめるところから物語は展開する。

マーゴット・ロビーが魅せる「かわいい」という手段

映画『バービー』は、主演のマーゴット・ロビーが製作も兼ね、かなり積極的に映画づくりに意見を出して関わっているという。

マーゴット・ロビーといえば、2020年の映画『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』( *Youtube予告映像 ) でも主演と製作を兼ねているのが記憶に新しい。
『バービー』を観た後、『ハーレイ・クインの華麗なる逆襲』を観なおしてみたら、浮かび上がってくるものがあった。

どちらの作品でも「男性中心社会」が戯画的に描かれていて、マーゴット・ロビーを中心とする女性たちが「男性がいることでしか存在価値を認められない存在」「男性に主導権を握られ、女性が本来の実力を発揮できない社会」から脱却しようとして闘うというテーマに一貫性がある。
『ハーレイ・クインの華麗なる逆襲』の舞台は、ゴッサムシティという犯罪はびこる街。
その街で暮らすハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)は、ギャングのボスであったジョーカーとの破局後、ジョーカーがいなければ自分は四面楚歌の存在だったということを思い知る。
自分に恨みを持ち命を狙ってくる敵から逃れ、同じように男性社会で問題を抱える女性たちと出会い、共闘することになるハーレイだが、いつしかそれは、「ジョーカーの女」ではなくなった、自分自身だけの存在価値を見つけるための闘いとなっていく。

このハーレイ・クインが克服できなかった問題が、2つあると私は思う。
それは、「ルッキズム」と「バイオレンス」だ。
マーゴット・ロビーがハリウッド映画に絶え間なく登場してきたトロフィーのような「典型的な美女」であることは、女優自身の意思とは無関係に、ロールモデルとして共感はしづらい、特権的な存在となってしまいがちだ。
そしてハーレイは、心理学博士という努力家ではあるのだが、結局は規格外な身体能力を駆使した暴力によって敵(男性)を倒して逃げ切った。

美女が武器をぶっ放すのは、映画としてはカタルシスではある。
でも、現実の問題を解決してはくれない。

一方で『バービー』では、マーゴット・ロビーが自身の「お人形のような」ルックスを逆手に取って、そのルックスが世間一般に与えてきたイメージをメタ的に捉え直し、一度否定して乗り越えることによって、新しい選択肢をより広くひらいたように思う。
「暴力」ではない手段によって。── いや、それは「かわいいという暴力」なのかもしれない。
バービーランドは理想郷にもみえて、男女逆転版「ゴッサムシティ」のようなものだったのではないだろうか。

変てこバービーという希望

そんな世界で何の疑問ももたず同じ毎日を送ってきた定番バービーに、ある日突然「劣化」と呼ばれるおかしなことが起こり始める。
ハイヒールに合うよう爪先立ち状態で固定されていた足が平たくなり、太ももにはセルライトまで出現!
楽しいパーティーの最中には、定番バービーが何の脈絡もなく「死について考えたことある?」と言い出し、周りはドン引き。
それまで悩みもなくハツラツとしていた定番バービーは塞ぎ込みがちになり、すっかり自信を喪失してしまう。

そんな事態を解決するために定番バービーが会いに行くのが、ケイト・マッキノン演じる「変てこバービー(weird Barbie)」。
持ち主に髪をざくざく切られ、顔にはカラフルなペンで落書きされ、さんざん雑に遊ばれすぎてボロボロになった異色のキャラだ。
生き字引のような変てこバービーが提示した解決策は、人間界に行って持ち主の人間に会いに行き、「世界の真実」を知るということ。
このバービー、翻訳では「変てこ」と訳されているものの、わりとネガティヴなニュアンスで呼ばれていたので、「変人バービー」とか「やばいバービー」などと言い換えたほうがイメージに近いのではないかと私は思う。

そんな変てこバービーだが、くたびれたおばさんという描かれ方ではなく、あくまでもパンキッシュでかっこいい孤高の存在であることが、私は希望に感じた。
『オズの魔法使い』でいうなら北の魔女、『シンデレラ』でいうならフェアリーゴッドマザーのような存在にもみえる。
変てこバービーは一貫して、ステレオタイプな「かわいい」を演じることがない。
ツンツンに逆立った髪や顔の落書きも、まるで往年のシンディ・ローパーのようにキマっている。ショッキングピンクのボリューミーなワンピースも彼女のためだけにあつらえたステージ衣装のよう。
独特の美学すら感じさせる変てこバービーの容貌は、やがてバービーたちが行き着く「美しさに優劣はない」というメッセージを最初から体現しているようにみえる。

ピンク色のメンタルを纏って

バービーランドの一日のシーンで流れるLizzoの「PINK」の中で歌われるように、バービーは「pretty, intelligence, never sad, cool」のイメージカラーであるピンク色を纏って生活していた。

「ピンクはドーパミンとセロトニンの値を上げてくれる色」と、グレタ・ガーウィグ監督は語っている (米『People』誌より)。

だが、定番バービーが「劣化」に苛まれ、変てこバービーを訪ねたときに、ピンクの服を着ていないのは印象的だ。
バービーは生きる気力を失っているとき、青や水色の服を着ている。
それまでのピンクとは対照的な、深いブルー地に白襟の、露出の少ないクラシカルなワンピースに身を包み、悩みを吐露しに向かうバービー。
バービーにとってピンクが「生」の色だとしたら、ブルーは「死」の色といえるのかもしれない。

そもそもバービーが突然「死について考える」と言い出したのはなぜだろうか。何かのきっかけで気に病むことが溜まり、希死念慮を抱いたとは考えがたい。
むしろ、「私がいなくなれば世界は変わる」という思いがたびたび頭をよぎってしまう精神状態だったのではないかと私は思う。
そしてドーパミンやセロトニン値は下がり、無気力になってしまう。

「ハイヒールを履いたまま現状に甘んじるか、ビルケンシュトックのサンダルを履いて人間界へ旅立つか」。
変てこバービーが問いかけたその二択に、定番バービーはまだ決断を渋りピンクのハイヒールを選ぼうとするのだが、実際は一択しかないのだと変てこバービーは言う。
こうしてバービーはビルケンシュトックを履き、人間界のカリフォルニアに自力で──ワープするのではなく、乗り物を自分で運転して自力で──行くことになる。

バービーが抱える矛盾と苦悩

そもそもなぜ「定番バービー」だけに「劣化」がおとずれたのかといえば、他の身体的特徴やキャラクターをもつバービーよりもいちばん最初に生まれた元祖である彼女は、「美女」としてステレオタイプ化された存在だったからだろう。
何の悩みもなさそうでいて、誰が見ても美しいという状態でなくなったら存在価値はなくなってしまう、と思い込ませる危うさを抱えている。
「私は"定番バービー"にふさわしいほど美しくはない!」そう嘆くバービーに、「マーゴット・ロビーが言っても説得力ない」とツッコミのナレーションが入るというメタ構造。
定番バービーは、「何にでもなれる」存在という意味で、女優としてのマーゴット・ロビー自身とも重なると思う。
バービーとして定番であり元祖でもある彼女は、とても複雑な問題を内包していたのだ。
ちなみにマーゴット・ロビーは、敢えて否定的なニュアンスも含む「ステレオタイプ・バービー」という呼び名を使うことを、バービーのメーカーであるマテル社の反対を押し切ってでも守り抜いたのだという(*)。

バービーの出現以前の世界では、女児向けのお人形といえば「赤ちゃん人形」だったと、映画の冒頭で語られている。
それは女の子のお人形遊びが育児のまねごと中心になることを意味するが、子育てはいつも楽しいだけのものではない、というのが女性のリアルだろう。
赤ちゃんではなく大人の女性のかたちをした、様々な服装や職業に変幻自在のファッションドール・バービーの発売は、「女の子なら母性があり、何よりも子育てを楽しむものだ」という固定観念を破壊し、「女の子はなんにでもなれる」というロールモデルを示した革命だった。
そのことが、女の子たちが赤ちゃん人形をぶっ壊すというシーンで衝撃的に描かれる。
バービー自身も、自分が女の子たちを良妻賢母像から解き放つ希望になったと信じていた。

しかし、人間界に行った定番バービーは、やっと出会えた女の子に「非現実な美の基準を押し付け、フェミニズムを50年遅らせたファシスト」と暴言を吐かれてしまう。
ステレオタイプ的な「金髪美女」、胸とくびれと長い脚の強調という理想化された外見は、ルッキズムやセックスアピールの象徴であるという矛盾も抱えていたことに、バービーは気付かされるのだった。
さらに、人間界は男性たちが牛耳っていて、ただそこにいるだけのバービーに卑猥な言動を浴びせかけてくる。バービーは今までいたバービーランドとのギャップに唖然とする。

一方、ケンは人間界の男性社会に触発され、バービーランドを男性が支配する極端な「ケンダム」に改革しようとする。バービーたちは現実社会にもよくあるように、男性に求められる「かわいい」存在でいることで、自ら思考することを放棄し、次第に心地よさを感じはじめ「洗脳」されていくが、マテル社の女性社員のグロリアとサーシャ、そして定番バービーの協力によって目を醒まし行動していく。
それは、バービーたちが男性に教えられ、認めてもらう「かわいい」行動を敢えて演じることにより、ケンたちを混乱に陥らせ、その間に自分たちの主導権を再び取り戻すという方法だった。
これは一種の色仕掛け作戦でもあり、暴力的な解決策ではあると思うけれど、女性たちの「諦め」を踏まえた上での歩み寄りとしてはリアルなのかなと感じた。

この映画の中で衝撃なのは、バービー自身が「私たちにはヴァギナもペニスもないのよ」と発言することだ。
彼女たちがプラスティック=つくりものである以上、当然ながら性器はなく、生殖することもできない。
子ども向け人形を描く上で今まではタブーであろうと思われるこの視点に、映画『バービー』は真っ向から迫っているのだ。
そしてこれが、ラストシーンへの伏線となる。

バービーとわたしたちが選ぶ結論は

誰かに決められた評価がなくたって、歳を重ねたって、自分には自分にだけの美しさがある。── バービーにそう伝えるキーパーソンもまた登場している。
それが、バービー人形の最初の生みの親であるルース・ハンドラー。
彼女との出会いは、定番バービーが固定観念から解き放たれ、自分自身について深く考える転機となる。

バービーランドと人間界の間の"裂け目"。
バービーはその裂け目を自分の意志で通り抜け、歳を重ねること、考えつづけねばならないことの苦しさも背負って人間界で生きることにする。

この"裂け目"とは、出産のメタファーなのかもしれない。
ラストにバービーが人間となって足を運ぶ場所は、職場でも学校でもなく、婦人科だった。
すべてを手にしていたと思われたバービーランドのバービーになかったもの、つまり生殖器が、今のバービーにはあるのだ。
このラストシーンは、「生殖できる肉体であることの肯定」だと解釈できるのではないか。
女性の肉体には「母になること」が付き纏う。
それはしばしば、「自立した女性は母にはならない」または「母には自由はない」という極端な主張すら生む。
母になることはそれまでの自分を捨てること。好きなファッションもできないし美しくもなれない。そんな固定観念に、女性は縛られてしまうことがある。だからしばしば、「母親なのに」とか「お母さんに見えない」とか、因果関係が変な言葉が投げられたりもするのだろう。
しかし、そういった極端さにこの作品は疑問を呈する。冒頭の過激な赤ちゃん人形破壊シーンを回収するように。

母になってもならなくても、どちらに向かったとしても、誰もが自由で美しいのだ。

人間になったバービーは、もはやピンクを纏っていない。
コスチュームは持たず、ベージュのジャケットとデニムパンツに身を包み、ビルケンシュトックで闊歩する。
髪型は魔法でスタイリングされたような完璧さではなく、無造作にまとめられている。
このファッションは、まっさらなキャンバスなのだろう。
バービーランドとはまた別の街並みだけれど、どこかつくりものめいた(=プラスティックな)カリフォルニアで、きっと主人公のバービー=バーバラは、一から新しい服を集めるはずだ。魔法みたいに与えられるのではなく、自分で考えることによって。
バービー自身も悩んだ、物語の結末。
それは私たちひとりひとりにも託されている。

これは、老若男女で語り合ってみたい映画だ。
小学生に感想を聞いたら冒頭と歌がウケたと言っていたし、ただかわいいと言っていた60代の人もいた。
感じたことをそのまま正直に表現する勇気。
それが、この映画がくれたいちばん大きなものかもしれない。

明日は何を着て、何をしようか。
たくさんのバービーによく似た私たちも、主人公なのだ。
この肉体をもって、生きているのだから。


文・イラスト:大石蘭













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