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#15『小僧の神様』志賀直哉

 短編集。志賀直哉と言えば『城の崎にて』。高校の国語の授業で読まされた。この本の中にも『城の崎にて』は入っている。初めて自主的に読んでみて、とても良いと思った。
 こういう話である。〈私〉が事故後遺症の療養で城崎(きのさき)に行く。しばし静けさの中で滞在する内で、生と死に関する考察が深まってくる。
 ある日、蜂が死んでいる。昨日までは元気に働いていたのに今日になったら死んでいて、仲間の蜂は見向きもしない。数日後に見ると雨に流されて姿もない。
 また散歩していると人間にいじめられて川から上がれない鼠を見る。必死で死から逃れようとしている。しかし死はもはや確定している。
 最後に、〈私〉はふと見かけた岩場のイモリをちょっと驚かそうと思って悪気なく石を投げる。石を投げるのが下手だから当たるはずない…のに、当たってしまった。そしてイモリは死んでしまう。
 偶然死ななかった自分、死んだ蜂、死が確定している鼠、偶然死んだイモリ…死にまつわるこれら各断片が短いページ数の上に積み重なって、立体的に「生きているとは何なのだろう」という問いを浮かび上がらせる。
 非常に空虚な感じがする心象風景。死に対する新鮮な驚きに遭遇する感じがとても良い。その驚きは人間がはるかな昔に覚え始めたもので、それ以来人は「なぜ死ぬのだろう」「なぜ生きているのだろう」と問い続けてきた。
 だんだんこの深刻すぎる問いをはぐらかすことに慣れて、特別の時以外考えないように自分たちを躾けてきた。でもやっぱりそこにある。はるかな昔から1mmも動かずにそこにあり続けている。
 志賀直哉の目線はそんな死を、恐れるでも拒絶するでもなく、本当に深くひたすら「何なのだろう」と不思議がっている。古代人と恐らくは同じ素朴な心で。
 これは平常の社会適応した感覚が持ち得ることのない問い。この世から限りなく離れた所から、この世の絶対不可欠要素である「生存」を眺め渡している、一種の臨死体験的な体験であるように思う。

 読んでいると心が静かになり、他ではなかなか得られない感覚をもたらしてくれた。
 これを高校の授業で扱ってもなかなかその価値を伝えることは出来ないように思う。というか無理でしょう。しかも教科書版は抜粋されていた気がする。短い作品なのだから最初から最後まで読ませないといけないと思う。そして先生の人生観も相当深まっていないといけない。
 でもそこまでしても、やっぱり高校生の時の自分にこの静けさが分かったとは思わないな…。分からなくても、せめて名前だけでも知っておくことが大事なのかな、とも思うけれども。

 他に表題作の『小僧の神様』『范の犯罪』『真鶴』など、良い作品が半分くらい占めていた。日本文学に詳しくないのであまり比較ができないのだが、志賀直哉の文章は何か透き通って見易い気がする。何を言っているんだこれは、という感じがなくて、客観的にさらけ出されている。だから湿っぽさはない。もっとも「その当時の日本人はそういう湿っぽいことを考えたのか」みたいな時代感覚の差はあるけれども、それすらも湿っぽいものを乾いた所から見ているような感じがして良い。

 『范の犯罪』では旅芸人の夫が舞台の相方でもある妻をナイフ投げで殺してしまう。偶然に見えるが故意とも言える。彼は妻に殺意を抱いていた。でもまさか殺す気はなかった。いざ舞台で本番となった時、自分が妻殺しに向かっていることに気付く。しかしその流れを止められぬまま、妻にナイフを当てないように努めているにもかかわらず、最後にはぐっさりと行ってしまう。

「ナイフが指の先を離れる時に何かべたつくような、こだわったものがちょっと入ります。私にはもう何処へナイフが刺さるか分からない気がしました。一本ごとに私は、良かった、という気がしました。私は落ち着こう落ち着こうと思いました。しかし…意識的になることから来る不自由さを腕に感ずるばかりです。首の左側へ…次に右側へと打とうとすると、妻が急に不思議そうな顔をしました。発作的に烈しい恐怖を感じたらしいのです」103

 そして殺してしまう。その後、裁判官との対面の会話が始まり、范は正直に客観的に、自分の心の内に起きたことを語っていく。范は妻を殺したい自分に気付いていた。しかしそれを無意識領域に追いやって、知らないふりをしていた。だからナイフ投げも選びもした。殺す気はなかったから。
 しかしナイフ投げを始めると突如、〈無意識〉が活動を始める。〈意識〉=范の方はそれを止めようとし、無意識を退けようと努める。しかし無意識は肉体に表出してくるもの。「指先を離れる時にべたつくような」という表現が非常に生々しい。そして無意識が主導権を握ったまま殺害を完遂してしまう。その後の裁判官との話では范は〈意識〉の側から、無意識のやったことを客観的に報告している。
 作中、多分、范は一度も無意識と同化したことはなかったのだ。一貫して意識の側にいて、無意識を観察しながら「困ったなあ、どうにもならないぞ」そして「困ったことにこういうことが起きたのです」と言う。
 これを無責任と言えば確かに無責任で非常に怖いのだが、不思議とそういう印象は受けず、「そうだよなあ、我々の中には確かに自分が知らない、自分が止めることも出来ない力が蠢いているよ」という共感すらする。やはり粘っこくない志賀直哉はここでも自己の犯罪擁護をするのでもなければ、自分のしたことを罪とも思わないサイコパスにも堕していない。私の乏しい経験だと、日本文学はそのどちらかに行く傾向が強い気がしてあまり好きな印象を持っていないのだけれど、この話では〈無意識〉を観察する場所取りみたいなものが非常に良かった。
 『城崎にて』と言い、この世を実は根底から支配している力を、離れた所から観察している、というような眼差しが志賀直哉にはあるのだろう。ちなみに裁判官は陳述を全て聞いた後で「無罪」とした。
 他の作品も読んでみたいと思う。

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