見出し画像

【歴史】「光る君へ」がもっと面白くなる(3)〜藤原家の系図編(前編)

今年(2024年)のNHK大河ドラマ
「光る君へ」
をよりわかりやすく理解するために、登場人物を紹介しています。

第1回目は、全体の登場人物を紹介
 ▼

第2回目は、
3人の天皇に焦点を絞って紹介しました。
 ▼


さて、3回目となる今回は「藤原氏」。

ドラマを見ていると、ほとんど全ての出演者が
「藤原」「藤原」「藤原」😓
誰が誰だかさっぱりわかりません😅

本作の主役である紫式部(吉高由里子)だって、
実は「藤原」だし、
淡い恋心を抱く道長(柄本佑)だって「藤原」、
敵役の道兼(玉置玲央)も「藤原」、
はんにゃも「藤原」、ロバートも「藤原」、
悪役の段田安則も「藤原」、
いい人役の佐々木蔵之介も「藤原」
って、もう訳がわからん😵‍💫

そこで、まとめてみたのが、下記の「系図」✏️

(▲ 藤原氏の家系)
※クリックして拡大してご覧ください
赤い枠で演者名が書いてあるのが現時点のキーマンです。

おお、なるほど。わかりやすい😸

現時点で登場している多くの「藤原」が
『いとこ』もしくは『はとこ』だということが理解できました。

なぜ、藤原同士で協力したり争っているのか、
ちょっとだけ解説していきます。



■藤原家の始祖

藤原家の始祖といえば、ご存知
中臣鎌足なかとみのかまたり」。

大化の改新』で、「中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智てんじ天皇」に協力して蘇我入鹿そがのいるかを暗殺、蘇我氏を滅ぼした政治改革の功績で、天皇から「藤原」の姓を賜ったのが、
その始まりです。

鎌足の子で、
大宝律令の制定と平城京遷都に関わった
藤原不比等ふひと」を経て、
その子たち藤原四兄弟
武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろは、
奈良時代の前半、天平時代に政治を担いました。

その後、
長男・武智麻呂むちまろの「南家」、
次男・房前ふささきの「北家」、
三男・宇合うまかいの「式家」、
四男・麻呂まろの「京家」
の4家に分かれ、その後の政治や学問、文化に大きな足跡を残します。

平安時代に、北家の房前ふささきの流れを汲む
藤原良房よしふさが、皇族ではない貴族として、初めての摂政せっしょうとなり、
その養子・藤原基経もとつねが関白となったことがきっかけで、藤原氏による摂関政治が始まります。

天皇が幼い時に、天皇を補佐するのが「摂政」、
成人した天皇を補佐するのが「関白」です。

藤原道長(柄本佑)の藤原家もまた、この名門・
藤原北家ふじわらほっけの流れを汲んだ一族という訳です。

ドラマを見ていても、「藤原北家ふじわらほっけ」というフレーズは度々出てきます。


それでは、「光る君へ」の内容がより理解できるように、主だった「藤原氏の13人」を紹介していきます(どこかで聞いたことのあるタイトルだな…)💦

ドラマに出てくる人物以外も記載しますが、その存在を知っておくと、よりスムーズにドラマの内容だったり、セリフが頭に入ってくると思います。

上の系図と合わせて、ご確認ください。


■道長の曽祖父と祖父の時代(小野宮流と九条流)

(01)藤原忠平ただひら(道長の曽祖父)

平安前期の貴族で有名な菅原道真
そのライバルだったのが、藤原時平
この辺りの話は、遥か昔の高校時代の歴史の授業で習ったような…。
正直、菅原道真は知っていても、藤原時平の方は、ほとんど記憶に残っていませんけど💦

今回の藤原氏の系図は、
その藤原時平ではなく、
道長(柄本佑)のひいおじいちゃん
藤原忠平から始めます。

忠平は
菅原道真のライバルとされた、藤原時平の弟です。

また、忠平の父は、
藤原摂関政治の基礎を築いたとされる
藤原基経もとつね
名門・藤原北家出身の華麗なる一族という訳です。

忠平は、兄の時平が39歳で早逝すると、
その跡を継ぎ、藤氏長者(藤原一族の長)となり、醍醐天皇の政権を支えます。

幼い頃から聡明で知られた忠平は、特に農政に力を発揮し、兄・時平の行った国政改革と合わせて
延喜の治」と呼ばれる改革を行いました。

その後、醍醐天皇は病に倒れ、
朱雀天皇が8歳で即位します。
忠平は「摂政」、更に元服後は「関白」に任じられ、朱雀天皇の在位24年の全期間、政治の中心にいました。

朱雀天皇が退位し、弟の村上天皇が即位すると、
引き続き関白となり、70歳で亡くなるまで、
長く政権の座にありました。

忠平は、「有職故実ゆうそくこじつ(= 朝廷の様々な儀式や行事、法令、官職など)」、多くの知識に通じた「有識者ゆうそくしゃ」であり、それらを体系化し、
貴族の儀礼の基本形を確立させました。

「光る君へ」で、ロバートの秋山が演じる藤原実資さねすけも「有職故実ゆうそくこじつ」に誰よりも通じていたため、花山天皇も実資さねすけを手放すことができなかったのです。


(02)藤原実頼さねより(道長の祖父の兄/大伯父)


藤原実頼さねよりは、忠平の長男です。
次男が藤原師輔もろすけ(道長の祖父)であり
村上天皇が即位すると、
兄・実頼さねよりが左大臣、
弟・師輔もろすけが右大臣となり、
その政権を支えます。

父・忠平は、朝廷の儀式・慣習である「有職故実ゆうそくこじつ」を口伝にて兄弟に授け、
兄・実頼は「小野宮流」、
弟・師輔は「九条流」をそれぞれ創設。
2大儀礼流派が誕生します。

一方、兄・実頼は娘の述子のぶこを、
弟・師輔は娘の安子やすこ
それぞれ村上天皇に入内させますが、
安子が3人の皇子に恵まれたのに対し、
述子には子が授からず、
このため天皇の外戚となった弟・師輔の一族が
藤原氏の嫡流の座を得る
こととなります。

村上天皇が崩御し、
その皇子・冷泉天皇が即位しますが、
冷泉天皇は奇行が目立っていたため、
村上天皇時代には長く置かれなかった関白が復活。

天皇の外祖父である弟の師輔が既に亡くなっていたため、
兄の実頼が弟の代わりに関白となり、
冷泉天皇を補佐することになります。

前回の記事でも紹介した通り
冷泉天皇は2年ほどで退位し、
弟の円融天皇が次の天皇に即位します。

実頼は、冷泉天皇の関白から、円融天皇の摂政となり、引き続き政権を担うことになります。

この実頼の子が
「光る君へ」に登場する関白・頼忠よりただ(橋爪淳)という訳です。


(03)藤原師輔もろすけ(道長の祖父)


藤原師輔もろすけは、忠平の次男です。
兄の左大臣・実頼さねよりと共に、
右大臣として村上天皇を支えます。

父・忠平から、兄と同様「有職故実ゆうそくこじつ」を授けられ弟・師輔は「九条流」を創設します。

師輔もろすけは、娘の安子やすこを村上天皇のもとに入内させ、
3人の皇子に恵まれます。
初めの子が、冷泉れいぜい天皇
三番目の子が、円融えんゆう天皇となります。
なお、ニ番目の子は政争に巻き込まれ、天皇として即位することはありませんでした。

天皇の外祖父おじいちゃんという地位を獲得した師輔とその一族「九条流」が、藤原北家の嫡流となり、
兄である実頼の「小野宮流」は、弟の後塵を踏むことになるのです。

その後、師輔は病となり、52歳で亡くなり、
冷泉天皇の関白の座は、兄の実頼が就任しますが、
政治の実権は、師輔の長男である伊尹これただが握ることなるのです。


(04)藤原頼忠よりただ(道長の父の従兄弟/従伯父いとこおじ


藤原頼忠よりただ(橋爪淳)は、
道長の父である兼家(段田 安則)の従兄弟という関係です。

兼家の父である師輔の兄、実頼さねよりの子で、「小野宮流」の嫡流です。

ドラマでは、橋爪淳が演じていて、
いつも小さな声でボソボソと喋る貴族として描かれています。

この頼忠の父・実頼さねよりは、
冷泉れいぜい天皇の関白でした。
その後、冷泉れいぜい天皇は、11歳の弟の円融えんゆう天皇に譲位しますが、実頼は引き続き、円融天皇の摂政を務めます。

しかし、ほどなく実頼が71歳で亡くなると、
円融天皇の摂政の座は、息子の頼忠ではなく、
九条流・師輔の長男、伊尹これただの元に移ります。

一方、頼忠は右大臣となり、円融天皇の政権を
伊尹これただと共に支えていきます。

その後、伊尹これただが急死した後、
伊尹これただの弟、兼通かねみち
兄の跡を継ぎ、関白となって円融天皇を支えることとなります。

ところが、この兼通かねみち
弟の兼家(段田 安則)と物凄く仲が悪く、
従兄弟の頼忠の方を頼りにするのです。

そして兼通かねみちが重病で危篤になった際、
関白の座を弟の兼家ではなく、
従兄弟の頼忠に譲ってしまうのです。

円融天皇は、兼通・兼家の甥という関係ですが、
関白となった頼忠は、円融天皇の外戚ではないことが弱味でした。

ドラマではこの辺りを、声が小さい気弱な貴族として描いていますね🤔

このため頼忠は、娘の遵子のぶこを円融天皇に入内させるのですが、
ライバル・兼家も負けずと詮子あきこ(吉田羊)を入内させる訳です。

なお、町田啓太が演じる、藤原公任きんとうは、
この頼忠の長男で、遵子のぶこの弟となります。

詮子あきこは皇子を産みますが、
遵子のぶこは子を授かることができませんでした。

その後、円融天皇は花山天皇に譲位、
更に兼家の孫である幼い一条天皇が即位して、
権力の座は完全に兼家のものとなります。

頼忠は関白の座を降り、失意のうちに66歳の生涯を終えるのでした。


■道長の伯父の時代(九条流)

(05)藤原伊尹これただ(道長の伯父)


藤原伊尹これただは、
道長の父である兼家(段田 安則)の兄。
藤原師輔の長男です。

妹は村上天皇の中宮(皇后)の安子で、
その子、冷泉天皇・円融天皇の即位に伴い、
外伯父として、朝廷での権力を握ります。

父の急死によって、関白には伯父の実頼が就任しますが、実際の政治を主導したのは、伊尹これただでした。

伊尹これただは、
妹の子である冷泉天皇に、娘の懐子ちかこを入内させ、
その子・師貞親王もろさだしんのう花山かざん天皇)の外祖父となります。

伯父の実頼の死後、冷泉天皇の弟・円融天皇の摂政に就任して権力を握りますが、その翌年、49歳で急死してしまいます。


(06)藤原兼通かねみち(道長の伯父)


藤原兼通かねみちは、
道長の父である兼家(段田 安則)の次兄。
藤原師輔の次男です。

兄である伊尹これただは、
すぐ下の弟・兼通よりも、末弟の兼家(段田安則)を優遇していて、
朝廷内での官位も、兄の兼通よりも弟の兼家の方が上でした。
これは、伊尹これただが宮中の貴族の力を掌握するために必要な措置でしたが、
これらが、兼通・兼家兄弟の不和の原因となります。

長兄・伊尹これただが病に倒れると、
兼通と兼家は、円融天皇の御前で
後任を巡って口論を始めるほど、仲違いしていました。

円融天皇もそんな伯父・兼通を疎んじていましたが、幼き頃に亡くなった母・安子の遺した
摂政・関白の座は兄弟の順に就任すること」という遺言に従い、
伊尹これただのすぐ下の弟・兼通が、次の関白の座を射止めます。

冷泉天皇の弟・円融天皇は、
伊尹これただや兼家から、
冷泉天皇の子・師貞親王もろさだしんのう花山かざん天皇)が成長するまでの、一時的な天皇であると見なされていたので、
2人とも娘を入内させることはありませんでしたが、
兼通だけは、娘の媓子てるこを入内させました
(兼通の死後、兼家は娘の詮子あきこを入内させます)。

伊尹これただの死の直前に元服した円融天皇は
こうして、義理の父となる、兼通を信頼するようになりますが、
一方、兼通と仲の悪い兼家は、円融天皇の兄『冷泉派』と見なされ、円融天皇から遠ざけられることとなります。

兼通の露骨な冷遇に、兼家も兼通を恨むようになっていきます。

その後、重い病が兼通を襲います。
床に伏した兼通の屋敷に、兼家の牛車が向かっているという話を聞いた兼通は
「弟がようやく改心し見舞いに来るのか」と思い
待っていると、兼家はそのまま素通りし、天皇の住む内裏に向かいます。

兄・兼通が臨終だと思った兼家は、
天皇に直接、後任の座を奏請そうせいしようとしたのです。

それを知った兼通は大激怒!
病の身を押し、家臣4人に支えられて参内。
その姿を見た兼家は驚き、逃げてしまいます。

兼通は、従兄弟である頼忠を、自分の後任の関白に指名し、更に兼家を左遷した後に、53歳の生涯を終えたのです。


(07)藤原為光ためみつ(道長の叔父)

藤原為光ためみつは、
道長の父である兼家(段田 安則)の異母弟です。

為光ためみつは、花山天皇に入内した忯子よしこの父親として有名です。
また、為光ためみつの息子が、はんにゃの金田が演じる藤原 斉信ただのぶです。

兼家(段田安則)の兄で関白の兼通が存命中、
兼通は、弟の兼家の昇進を全く止め、
為光ためみつを筆頭大納言として、兼家の上位に就けるなどの嫌がらせをします。

これほど兄弟仲は悪かったのです。

兼通の死後、
為光ためみつは、円融天皇の皇子・懐仁やすひと親王の外祖父である兼家と関白の座を争っていました。

為光ためみつの長女の夫で、
花山天皇の叔父となる藤原義懐よしちか
為光ためみつを『花山天皇派』に引き込みます。

しかし、為光の娘の忯子よしこの死をきっかけに、花山天皇は出家。

天皇の座は、懐仁やすひと親王が譲り受け、一条天皇となります。

こうして、兼家一条天皇の摂政となり、為光の野心は挫折します。

その後、兼家(段田安則)は
左大臣・源雅信(益岡 徹)に対抗するため、
為光との連携を図り、為光は右大臣に就任します。

その後、為光は、貴族の最高位である太政大臣にまで昇進しますが、その翌年、51歳で亡くなっています。


権力の座を巡って、ドロドロの争いを行う藤原氏。
道長(柄本佑)の前の世代から、既に権力闘争が始まっていました。
こうした経緯を踏まえ、「光る君へ」を見ると
ドラマの理解度が深まりますね。

次回は、更に複雑な「藤原家」の後編。
道長とその一族を改めて紹介したいと思います。

「光る君へ」を見る際の参考になれば幸いです。

今回も長くなり恐縮です。
m(_ _)m
それでは、また。

(つづく)

(2024年2月18日投稿)


つづきはコチラ
 ▼


================



もっと詳しく知りたい方へ
公式ガイドブック
 ▼



この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?