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複数の「リベラル」〜「何への寛容?」〜

 <リベラルの若干の補足>

 過日上梓した新刊(『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)では、あくまでも現代日本の文脈において「政治をするということ」を説明し、政治と思想の峻別を呼びかけることが趣旨であったため、タイトルにある「リベラル」の範囲もかなり腰だめの定義(反国家保護主義的立場、それゆえに個人を重んずる態度、その意味で近代立憲主義を守り、格差必然の富の分配にだけは政府が適度に介入するべきだとする態度)で示さざるをえなかった。

 したがって、どうしてもそこでは、リベラル=「ややぼんやりと野党陣営側」という単純化した図式になってしまう。しかし、一冊の書物に全てを背負わすことはできないので、それにいまひとつ説明を加えておく必要があると考えた次第である。
 なぜならば、保守の側にも「リベラル保守」という、多くの人々が手垢とともにもつ「リベラル」とはまた異なるニュアンスのものがあるからだ。政治的マニフェストが含みもつ性格とは、こうしたキーワードのヴァリエーションを、その最中には細かく設定できないことである。

<アクセントの異なる寛容の概念>

 とは言え、なおここでも保守やリベラルについての目配り十全な説明をするには紙幅が不足し、本来なら別の書を上梓せねばならないので、とりあえず”リベラル”の含意として中心的位置を占める「寛容(tolerance)」の概念について若干のメモ書きをしておきたい(リベラルを分節化するための切り口は、もちろんこれだけではない)。
 この言葉の分節化が適切になされないと、二種類のリベラルが、およそ共有地平を狭くさせられ、架橋不能な対立関係とされてしまう。つまり(対立はあって当然なのだが)言葉に込められた意味の違い、逆に共有価値に無自覚なまま、各々が勝手に「リベラル」という言葉を使って、まったく建設的でない相互非難となってしまう。これらの違いは是非とも区別しておかねばならない。

 まずは、保守主義者が使用する場合の「リベラル」である。

 例えば、西部邁が「自由民主主義は保守主義であらざるをえない」と言う時の「リベラルマインド」とは、理性の限界と危うさを心に留め置き、人間の誤謬を前提に、他者と世界の不可知性を受け止め、それを克服するために平凡ゆえに非凡なる死者の言葉と知恵、すなわち伝統への敬意と、他者との対話を繰り返していく謙虚さが必要だという態度だ。その意味で「寛容さ」が不可欠なものとして登場する。

 骨子は、「対話」と「謙虚さ」を基盤とした「寛容さ」になる。失敗が標準である人間を受け入れ、万能なる理性など持ち出すな、である。

 しかし、他方で「個人の多様性(diversity)」系リベラル(とでも呼ぶべきもの)がある。

 ここでは、個人の自律と尊厳に軸足を置き、それゆえに各々の個人がもたらす社会的に多様な諸価値を相当程度において重視する。彼らの主張の中心は「新しい考え方(伝統と対立するもの)」の萌芽と台頭に対して「寛容たれ」というところにある。
 このキャンプでは、LGBT、アボーション、パリテ、エコロジー、障がい者、総じて少数者の擁護がなされる。したがって、そこから導き出される家族観、社会観、国家観、人権の持つ普遍性から敷衍される様々な寛容な諸制度(種々の福祉的配慮、刑務所における待遇や人権の擁護など)を構築すべしという態度が、彼らにとっての「リベラルマインド」ということになる。

 この場合の骨子は、「個人の尊厳」と「多様性の尊重」を基盤とした「寛容さ」になる。世界には色々な人がいることを受け入れよ、である。

<各々の背景の違い>

 これは、言わば「オルテガ的反大衆的態度 vs 多様性リベラル」とでも言うべき対立図式になるだろう。ファシズム台頭時代のスペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットにとって大衆とは、「自分が他者と同じだということに安心する」、この世に一人しかいない自分というものと向かい合う気がさらさら無い大量の人間たちであって、欲望の放縦(ほうしょう)と表裏の関係にある個別の人間への敬意を失った者達である。
 これを忌避するオルテガの信奉した価値は当然、古くは宗教的寛容を源とするヨーロッパ伝統の自由主義となった。

 逆に、主として新大陸を中心に独特のニュアンスを持って発展してきたリベラルには、ルーズベルト連合(これまで放置されてきた人々を組入れた20世紀米国民主党の政治支持基盤)が必然的に抱え込んだ多様なる社会的選好がある。
 つまり、いわゆる政治・社会的主流派であった、ワスプ(white Anglo-saxon protestant)以外の少数派が、北米の強い個人主義志向を基礎に、人種的にも宗教的にも、社会経済的にも、多様な集団として包摂されることによって醸成されてきたのが、このリベラル派である。だから「砂つぶのような大衆」というイメージよりむしろ、彼らは伝統の桎梏から相対的に自由な個人主義者たちである。

<両者を分かつもの:「伝統」の概念>

 この両者を分かつものを考える切り口の一つが「伝統(tradition)」の概念である。

 西部に私淑した中島岳志も度々指摘するように、保守主義によるリベラルマインドでは、伝統とは、共同体の中にこそ生きる意味のある場所(トポス)があり「そこで何かを演ずることこそが人間としての自由だ」(福田恆存)という個人観を前提に、「そういう普通の人たちの人生や生活の凡なる生き様から積み上げられる知恵」を指すのであり、すなわちそれは「死者の声」である。今を生きるものだけではなく、「過去の人々の声とともに人間は生きている」(E・バーク)となる。

 人間がそれに正しく拘束されるのならば、おのずと「世界は急激には変えられない」という判断が生まれる。そこには人間には積み重ねてきた習慣やそこから育まれた、風雪に耐えた種々の生活の技法というものがあるからで、「裸の理性信仰」(オルテガ)によって、それを突然取り上げられた人間は有意なる”生活”や”生きる場”を失ってしまうのである。

 しかし、多様性を認めよというリベラルからすれば、「すべての伝統は、先行する伝統を革新して、それを引きずり下ろして獲得されたものである」から、「保守主義者の言う伝統とは、実は人間が克服するべき悪しき遺制やならわしの後に現れた”歓迎すべきもの”だ」という皮肉になる。
 伝統とはすべからく「新しいもの」なのであって、過去の遺制に耳などを傾けていたら、今を生きるものたちに対して極めて不寛容な社会を維持することになると、彼らは考える。伝統の意味内容のズレがここにある。

 「男子厨房に入るべからず」などという「死者の知恵」などナンセンスである。「男も過酷な資本主義システムで疲弊し、女も同じように生産に従事しているのに、どうして賃金にカウントされないシャドー・ワーク(イヴァン・イリイチ)」を一方的に女性がやらねばならないのか!」・・・となる。万邦無比なる「夫婦同姓制度」を選択制へと変える議論をもう30年もやっているのがガラパゴス日本だと、こちらのリベラルマインドからは怒号が飛び出すことになる。

<何に対する寛容か?=何を本当は守りたいのか?>

保守主義リベラル:「人間の生活や社会技法は漸進的に変える以外にない。理性を万能と考えると世界は不寛容な設計主義となる」        (反論:それを既得権益擁護と呼ぶのだ!)
             vs
多様性リベラル:「人間の生活や社会技法は、”今を生き(あるいは生きずらい)”、”今足を踏まれている”者達を救うために変えねばならない」 (反論:少数者と弱者を聖化し政治的資源にするな!)

 両者は熾烈な対立をしているように見える。こうした敵対的関係は、フランス革命以来ずっと継続中である。しかし、同時に忘れてはならないのは、どちらも「リベラル」(寛容)を価値の中心にしているということだ。

 いったい、両者を取り結ぶ共有地平とは何なのであろうか?もし、保守、リベラルという言葉を使用することに意味があるとするならば、それはその共有地平を探求するという課題とともにあるだろう。そして、その際に前提となるのは、「いったい自分は何を一番守りたいのか?」という問いに対して、暫定的にでも答えを用意しておくことだ。

 SNSには「保守(リベラル)ゲーム」と思しき児戯のごとき振舞いが跋扈しているが、彼らに「あなたは要するに何を守りたいのですか?」と尋ねて、(とりわけ自称保守の者たちから)まともな答えが帰ってきたためしがない。何かを守りたいのではなく、ひたすら何かに「怯えて」いるからなのかもしれない。怯える者はあまねく、正論らしき物言い(リベラル系の断言口調)への防御的攻撃が自己目的化する。逆側もまた同様の指摘から逃れることはできまい。

 だからこの問いに、暫定的であっても、何ら言葉を返すことなく品格貧しき言葉を投げつける「言論もどき行為」には、何か別の私的目的が存在するのであって、そうした個人的な憎悪の排泄に付き合うのは、言葉の真の意味での徒労である。だから、そうした「もどき」を最初にオミットしておくと、短くも儚い人生の経済学にかなうというものだ。

 政治を、政治家を、社会を、他者を、仲間を、共同性を考えるときの一つのレンズとして、このメモ書き論考を活用していただければ幸甚である。「わたし(あなた)はいったい何を守りたいのか?」に立ち戻り、己のレンズに映るものをどう言語化するかという課題は、私にも皆さんにも共通のものだ。

 それを言論と呼ぶのである。



※「リベラル」に関する教科書的な説明書きについては、拙書『静かに「政治」の話を続けよう』(亜紀書房)の2部3節「そもそもリベラルがわからない」を参照されたい。

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