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伊達政宗がお取り寄せした「白萩」

【スキ御礼】「歳時記を旅する 18 〔萩〕前*初萩に小声の雨の夜も降り


松尾芭蕉が仙台を訪れる前のこと。
仙台藩主の伊達政宗は、武蔵野で川狩をしたとき、五日市(現あきる野市)の大悲願寺を訪れた。
大悲願寺の庭には白萩が咲き乱れ、その見事さに心をひかれた政宗は、後ほど飛脚に書状を託して白萩一株を所望した。
この伊達政宗の書状が同寺に残されている。

(口語訳)

わざわざ飛脚を立てて申し入れます。
この間、そちらへ行ったときにはお会いできて満足でした。
頼みたいことがあるのですが、あの時、お庭の白萩がひときわ見事だったので少し分けてもらいたいのです。
先日は言い出せなくて、そのまま帰ってきて今まで過ごしてしまいました。
頂戴できればありがたく、うれしいです。
取り急ぎ一筆したためました。
謹んで申し上げます。
追って、こればかりの品ですが、間に合わせに小袖をひと重ね進呈します。
以上
松平陸奥守
(1623年)八月廿一日    花押
彼岸(悲願)寺御同宿中

あきる野市HP『郷土の古文書』「その2 伊達政宗の白萩所望状」

「松平陸奥守」とは家康から与えられた伊達政宗の称号。
当時、この大悲願寺の住職の弟子、秀雄(十五世住職)が伊達政宗の弟だったのだという。

伊達政宗が大層気に入ったという白萩だが、訪れたその場で所望しなかったのは何故だろう。
住職の弟子であった弟の秀雄にその場で言えば、仙台藩主や兄の立場であることを考えればすぐに分けてもらえたのだろう。
政宗は、藩主の立場で大勢の前で言えば相手も身内にも多大な気遣いをさせてしまうことを恐れたのだろうか。
また、兄の立場で弟に所望することになれば、住職の面目をつぶすことにもなるので、それも気にしていたのだろうか。

政宗は、55歳になった元和8年(1622年)、美しい宮城野の一角に屋敷を造って、母の義姫を山形から仙台へ迎えている。
その母は、翌年の元和9年(2023年)七月十六日に亡くなった。
葬儀は、同年八月五日に仙台で行われている。
そしてこの所望状が書かれたのが、葬儀の十六日後の八月二十一日である。

政宗の母である義姫の死と、弟のいる大悲願寺への所望状。
何かしらの関係があるのではないかと思いたくなる。

☆大悲願寺について、福光 寛 中国経済思想摘記 さんがレポートされています。ご紹介します。

(岡田 耕)

*参考文献
 伊達宗弘『武将歌人、伊達政宗』ぎょうせい 2001年
写真/岡田 耕
   (大悲願寺の白萩 2022年10月3日撮影)

ありがとうございました。
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