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俳諧としての映画「巴里祭」

【スキ御礼】季語になった映画「巴里祭」

物理学者で俳人の寺田寅彦は、フランス人には俳諧があるという。
その例にフランスの映画「巴里祭」を挙げている。
その物語はこうだ。

アパルトマンの向かいに住み、ひそかに惹かれ合っていたタクシー運転手のジャンと花売り娘のアンナ。フランス革命記念日"巴里祭"の前日、にわか雨をきっかけに心を通い合わせた。しかし、ジャンの元恋人が待ちにもどってきて、誤解をしたアンナはジャンと喧嘩をしてしまう。さらに、思いがけない出来事がふたりを引き裂き・・・。

『巴里祭 4Kデジタルリマスター版』 パンフレットより

この映画「巴里祭」について寺田寅彦こう言う。

場面から場面への推移の「うつり」「におい」「ひびき」には、すこしもわざとらしさのない、すっきりとして気のきいた妙味がある。これは俳諧の場合と同様、ほとんど説明のできない種類の味である。たとえばアンナが窓から町をへだてた向こう側のジャンの窓をながめている。細めにあいた戸のすきから女の手が出る。アンナがそれに注目する。窓が明いてコンシュルジの伯母さんが現れる。アンナが「そうか」といったような顔をする。文字で書けばたったこれだけの事である。(略)しかし実際はこの場合の巧拙を決定するものはほんのわずかな呼吸である。画面連続の時間的分配を少しでも誤れば効果は全然別のものになるであろうと思われる。要するに「かん」だけの問題である。

寺田寅彦「映画雑感 Ⅱ」『寺田寅彦随筆集 第四巻』岩波文庫1948年
※太字は筆者

この巴里祭の「妙味」と同様であるという俳諧の味はどんな味なのだろうか。

そのヒントは、その寺田寅彦の文の中にある。

この映画も言わばナンセンス映画で、ストーリーとしては実にたわいないものである。しかし、アメリカ人のナンセンスとは全く別の種類に属するナンセンス芸術である。「猿蓑」「炭俵」がナンセンスであり、セザンヌやルノアルの絵がナンセンスである、ドビュッシーやラーベルの音楽がナンセンスであると同じような意味において立派なナンセンス芸術であるように思われる。

同上(太字は筆者)

猿蓑」も「炭俵」も、芭蕉晩年の俳風である「かるみ」の代表的な選集である。これもまたナンセンス芸術であるというのである。
では、その「かるみ」とは何か。
蕉門の芭蕉の弟子の許六(きょりく)が「言葉にも筆にものべがたき所に、ゑもいはれぬ面白所(おもしろきところ)あるを、かるしとはいふ也(なり)」(俳諧問答)といっているように、その意味内容を的確に表現することは、芭蕉の門下生であっても困難であったようである。

俳人 長谷川櫂の文献に「かるみ」に触れている箇所がある。そこで理解するしかない。

人生は初めから悲惨なものである。苦しい、悲しいと嘆くのは当たり前のことをいっているにすぎない。今さらいっても仕方がない。ならば、この悲惨な人生を微笑をもってそっと受け止めれば、この世界はどう見えてくるだろうか。
芭蕉の心の「かるみ」とはこのことだった。「かるみ」の発見とは嘆きから笑いへの人生観の転換だった。

長谷川櫂『奥の細道をよむ』筑摩書房 2007年(太字は筆者)

ということは、寺田寅彦のいう「味」とは、「かるみ」のことであり、「かるみ」とは、「嘆きから笑いへの人生観の転換」だということになる。

映画「巴里祭」が季語になったのは、甘美な恋愛物語を通してのフランスへの憧れだと思っていたがそれだけではないかもしれない。
映画が上映されていた当時の俳人たちは、その映画のナンセンスと言われるところに俳諧の「かるみ」を無意識ながらも感じていて、日本の俳句に溶け込める親しさを許容したのではないだろうか。
これが例えば、理屈を詰めていくドイツ映画だったら季語になっただろうか、などとも考えるのである。

寺田寅彦も芭蕉の弟子の許六も言葉で説明できなかった、この映画の「俳諧と同様の妙味」。私なりの理解で句にしてみた。
いかがだろうか。

戸の隙に女の手出て巴里祭   耕

☆映画『Quatorze Juillet(巴里祭)』の主題歌「A Paris dans chaque faubourg(巴里恋しや)」を ai さんが紹介されています。歌詞も日本語訳も書かれています。

(岡田 耕)

ありがとうございました。


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