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SNS世代の消費と承認の拡がり:佐々木チワワ『「ぴえん」という病』

佐々木チワワ『「ぴえん」という病』を読んだ。副題は、 SNS世代の消費と承認。面白かった。

元々のアイディアが著者自身によるものではない切り口でも、本書の文脈の中でとても上手く活かされている。たとえば、SNSを用いたアイデンティティの管理・維持という労力を「アイデンティティの労働」とすることに対するの位置づけ方、あるいは現在の人々の状況を《他者からのまなざしにとらわれる日々》とする視点。それらは私には納得がいくものだった。

著者はテーマを限定した領域に絞っている。にもかかわらず、著者の視点は原題という時代の中で敷衍化されていく。「都市が作り上げた資本主義的な価値観を、ネットから吸い上げたぴえん世代は、その表層をまとい田舎町を歩く」。その様相は今の世の中のあらゆるものを覆い尽くしていく。あたかも『「ぴえん」という病』がウィルスのように街から街へと目に見えない形で拡がっているかのようだ。私にはそれが少し恐ろしく感じられた。

いかなる《病》も原因は複合的だ。環境や、あるいは空気感のようなものにも起因する。著者がテーマとする病を支え、増幅させ、生み続ける仕掛け自体が《病》を構成する。それはいかなる擁護をしようとも《悪》と呼んでもよいのではないかと私は思う。その意味で私は著者ほど寛容にはなれない。

本書に描かれる世界の背景には、人が差別的な生き物だという事実があるかもしれない。容姿や身長といった見た目、人種、性別、年齢、あらゆる機会を捉えて人は人を蔑視する。その蔑視を《受容》とか《寛容》とかいう言葉で覆い隠し、《中和》させようとする圧も、またひとつの仕掛けだと私には思える。仕掛けに悪意があるのに、なぜ人はそれを《受容》できるだろう。

単に目をつぶっているだけではないのか。私にはそれを面白がる余裕はない。しかし、そのような空気そのものが、本書で描かれている世相の背景から放射されるものだ。そしてその放射は日ましに強くなっている。

「万人受けを狙うのではなく、数百、数千の単位でのいいね!をもらう「界隈ウケ」」という言葉も、私には新鮮な驚きだった。人はいよいよ部族化(Tribe)しているのだろう。そしてネットによるつながりの地下化は、内輪受けを加速させていく。蔑視もまた《内輪》だから許される仕掛けとして許容されていく。

内輪受けの言葉は短い。他者の視点を求めていない。わかる人だけがわかればよい。そのような《内輪》の言葉を《公共》(パブリック)な空間に垂れ流すことへの躊躇が、内輪受けの言葉を使う人たちににはないのだろう。

躊躇がないという意味で、私には別のことも思い出される。会社にもいるのだ。「某○○」と言いたがる輩が。固有名を言えないのであれば、「ある企業が・・・」といえばよいのに、あえて「某○○」と彼/彼女はいう。そういう表現を用いることで、「みなさんもおわかりになりますよね」と暗喩する。こちらとあちらを分断する。

なんと姑息な自己顕示欲。そいつが良い奴であるか否かに関わらず、私はその行為を蛇蝎のように嫌ってしまう。私の心はとても狭い。

ああ、話がずれてしまった。しかし、どこかそこには、うまく言葉にできない共通する部分がある気がするのだ。本書の著者のようにはうまく言えないことが残念だ。言葉にできないものが私の中に残ったという意味で、しばらくはモヤモヤとするはずだ。

私は、そもそも《ぴえん》という言葉自体を知らなかったので、冒頭の《ぴえん》の使い方にまず驚いてしまった。 いろいろなことの価値がものすごく変化していることも驚きだった。

そのような変化を、ある種、当たり前のもの、当たり前のこととして受け止めている人が、少なからずいるということも私には驚きだ。

実はこの本を読んだきっかけは、知り合いの大学生と話していて、彼が「自分がよく見るYoutubeはホストの裏話的な奴なんですよね。むっちゃ見てます」と楽しそうに話していたからだ。そして、彼が感じていることはどんな世界観なんだろうと気になったのだ。

私には本書に登場する子たちと知り合いの子との間に大きな違いはないのだと思えた。

いずれにせよ、面白い本だった。

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