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前提や仮定だけを残して小説は放りなげるように終わる:菊池寛『父帰る』

子どもの頃、すべての人には良いところがあると、無理矢理にも思おうとしていたことがある。嫌な奴などいないのだ、どんな奴にも良い部分はあり、そこを見ればよいのだと思おうとしていたのだ。子どもだったのだと思う。

中学生になる頃、加藤茶だったか志村けんだったかがインタビューで「いろいろな仕事をしていろいろな職場を経験したが、どんな職場にも嫌な奴はいる。必ずいる。そしてどんな職場にも、ああこの人は・・と思える良い人がいる」と話しているのを聞き、確かにそうだと思った。以来、すべての人には良いところがあると思うことを止めた。少し楽になった。

親であることが、無条件に良い人であることの前提にはならない。嫌な奴も親になり、私にとっては嫌な奴でも、その子どもたちは良い親だと思っているのかもしれない。嫌な奴という感情も私自身の偏狭な視点にすぎない。

菊池寛の『父帰る』の父はクズなのだろうか。良い人ぶって言えば、「すべてをゼロか100で語るべきではない」ということになるのだろう。けれども、世間一般の見方でいえば眉をひそめられても仕方がない父だ。幼い子ども3人と妻を残し、不義理な借金の末、女と出奔してしまうのだから。残されたものたちは爪に火をともすような生活を強いられ、母は無理心中まがいのことをする。長男は幼くして働かざるをえず、酷い言葉もかけられただろう。行きたい学校にも行けなかった。

母が本当に死のうとしたのかどうかはわからない。浅いところに飛び込んだというのはどこかに助かりたい気持ち、子どもには死んで欲しくない気持ちがあったのかもしれない。それはこの短い小説ではわからない。いずれにせよ、子どもと一緒に死にたいと思うほど追い詰められてしまったのだ。誰かをそんな風に不幸にする人間をクズと定義するのであれば、父はクズと呼ばれても仕方がない男だ。

父は成功を夢見る人だったのかもしれない。見栄張りで傲慢で、分不相応に自分を過信し、成功を信じながら失敗してしまう。負けを認めないために嘘もつくし不義理もする。怒りをぶつける。そして逃げる。

考えようによっては、こんなに人間的な人はいない。エゴイスティックで夢見がち、そしてなによりも自分が大事。私の中に、この父と同じ部分がないと誰がいえよう。そのことは私が一番良く知っている。

その意味で父は性別を越え、とても現代的な人物ともいえる。成功を夢見、幸せになりたいと強く願っている。他者は道具であり、モノでしかない。成功や幸せは指標化可能であり、もっともわかりやすい指標は金。金があればおまえたちの元に大手を振って帰って来られたと父は思いたいのだ。それが嘘とわかっていても。

父は敗北者、loserであり、負け犬だ。そのことを父である彼は誰よりもよくわかっている。成功するためには多少の犠牲はやむを得ない、成功の暁にはそれを金銭で補償することが可能だ。そう考える父は、彼なりの論理でとても合理的なのだ。

ただ成功することはできなかった。国の新型コロナウイルス対策の持続化給付金詐欺を家族ぐるみで行ったとされ海外に逃亡しながら捕まった男にもどこか似ているかもしれない。

負けを認めたくないがために犯罪に手を染めることはなくても、その負の感情を補完するために別の人間に辛くあたったり、理不尽と私には思える行動を取る人は、今の世の中にも少なくない。理不尽だとわかっているから父は長男に対して激昂したのだ。

最後のシーンで長男はどうすべきだったのでか。父を追わず、そのまま出て行くに任せていた方が良かったのだろうか。もしそうしていたら、この家族は今後どんな後悔を胸に生きることになっただろう。

もし父がすぐに見つかったらどうだっただろう。この家族は幸せに暮らせただろうか。長男は父に対する思いを受容することができるようになっただろうか。母や次男や妹はどうなっていっただろう。

答えのない質問だ。小説は前提や仮定だけを残し、放りなげるように終わる。

参加した『父帰る』を課題本とする猫町倶楽部の短編読書会で「父は幽霊だったと思っていました」と言われた方がいた。本当にそうかもしれません。父が見つからないと思った瞬間、長男もそう思ったかもしれない。あるいは、案外、近所の飲み屋で発見され、ああ、やっぱりこいつはダメ親父だと家族を茫然とさせたかもしれない。

いずれにせよ、長男が過去を振り返る長いモノローグのあと、母や弟や妹、そして父さえも感情の渦に飲まれていく。ろくでなしだとか善悪だとか正義とか、そういう理性による言葉ではなく、登場人物の誰もが言葉にならない感情に突き動かされていく。赦すとか赦さないとか、そういうものは本来、言葉にならない感情なのかもしれない。

読むだけなら15分だが、読書会では1時間半をかけて話すことができる。余韻までを含めれば、この先もずっと忘れることができないかもしれない。短編小説の面白さが、この歳にして初めてわかってきたように思えてくる。

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