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隣の芝生はやっぱり青い。でも隣から見たうちの芝生も青いのかもしれない。

「隣の芝生は青い」ということわざがある。

意味はご存知「他人のものはよく見える」こと。
同義語に「隣の花は赤い」「隣の糂粏味噌(じんだみそ)」なんてのもあるらしい。じんだみそって何だ。

そんなことわざがあるぐらい、人間はずっと昔から自分と他人と比べては「いいなあ」と羨むものらしい。

もちろん、私もその一員。

隣どころか向かいも裏も、何ならご近所全部「いいよね、お宅の芝生は青くて」と思ってしまう節がある。

みんな私より幸せ。
私より恵まれている。
いいなあいいなあ。

特に私は「お金」とか「環境」とか「美しさ」という芝生への反応が強めタイプなので、「いいよね、実家お金持ちで」とか「いいよね、旦那さん一流企業で働いてるもんね」とか「いいよね、美人だもんね」とか「いいよね、頑張って働かなくてもいいんだもんね」と思って、心の中でこんな顔(¬_¬)になる。

でもそんな自分も嫌だから「いかんいかん。自分が持っているものに目を向けなきゃ」と思い込もうとしたりしてた。

でもやっぱり隣の芝生は青々と輝いていた。
それと比べたら、うちの芝生はちっとも青く見えなかった。

いつだったか、そんな話を人にした。
みんな幸せそうで、そういう人を見るとモヤっとしちゃうんだよねと。

するとその人は「私は、家族が仲良さそうなオカダさんのこと、いつもいいなあって思ってますけどね」と言った。

え?うち?そんなに仲良くないよ?
母とはしょっちゅうぶつかるし?

そう思いながらも聞いてみると、彼女はあまり家族の仲が良くなくて幼い頃から「家族団欒」の記憶がないのだという。

だから私が「父と山に登った」とか「母と買い物に行った」とか、そもそも家族で夕飯を食べてることが「いいなあ」と思うのだという。

私からしたら、家族で夕飯を食べるなんて当たり前すぎるし、日によっては若干面倒臭くもあったりするのだけど、それを「いいなあ」と思う人もいるなんて。

それは、私にとって衝撃の大発見だった。

そうか。
うちの芝生も青いんだ。

それを言われてから、家族での夕飯は「これはありがたいものなんだ」と思うようになった。
まあ、時々忘れて面倒になるけど。

ほかのことも「これって、当たり前じゃないなあ。ありがたいことなんだなあ」って考えるようになった。

たとえば健康な体があってどこでも行けることとか、寒い時にエアコンをつけることができることとか、コーヒー飲みたいと思ったときに飲めることとか、トイレ行きたいと思ったら行けるとか、安心して眠れることとか、歩けるとか、喋れるとか、喋る人がいるとか。

本当にそういう些細なことも全部「当たり前じゃないんだなあ。どこかの誰かからしたら『いいなあ』かもしれないんだなあ」そう思って、我が家の芝生の青さを時々感じられるようになった。

とはいえ、隣の芝生はやっぱりキラキラと青いし、隣の花は赤いし、隣の味噌は…よくわかんないけど。

羨ましい気持ちが生まれるのは仕方ない。
それが人間。人間だもの。

それに、私が「いいなあ」と思うあの人だって、隣の芝生の青さを羨んでるかもしれないんだから。

隣の芝生は青い。
それでいいんだ。

で、じんだみそって何?

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