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深読み 米津玄師の『BOOTLEG』最終章『灰色と青(+菅田将暉)』⑥遊子猶行於残月 函谷鶏鳴


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本当に清少納言の『枕草子』は深い…

米津玄師が目をつけるだけのことはある…


ふふふ。

四季(春は曙・夏は夜・秋は夕暮れ・冬はつとめて)の件や、御簾(香炉峰の雪)の件といい、本当に米津玄師はおもしろいことによく気付く。

夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも
よに逢坂の 関は許さじ

この歌も、まるで「あの絵」のように聞こえるからな(笑)


ええ、確かに…

まさに「心かしこき関守侍り」です…


『Annunciation of Cortona』
Fra Angelico


もう、そうとしか思えないな(笑)



Beato Angelico(フラ・アンジェリコ)の絵『Annunciation(受胎告知)』から作られたビートルズのアルバム『LET IT BE』をオマージュするには、清少納言『枕草子』以上に相応しいものはないでしょう。


だから米津玄師は『灰色と青』の1番で「袖丈が覚束ない」「どんなに背丈が変わろうとも」と「身長」のことを歌った。

この絵は部屋のスケールと人物のスケールが合っていない。

『不思議の国のアリス』のように、部屋の大きさに対して天使ガブリエルと聖母マリアは大き過ぎるのだ。


この絵の天使ガブリエルと聖母マリアは、屈んだ姿勢を直立にすると、背丈が部屋の戸口よりも高くなる。

それをオマージュしたのがアルバム『BOOTLEG』のジャケット画でした。

あの絵の首無し男に首をつけて部屋の出入口まで移動させると、背丈が戸口よりも高くなる…



そして「戸口よりも背丈が高い」といえば「孟嘗君」だな。



孟嘗君田文は、古代中国の春秋戦国時代(紀元前四世紀頃)、斉の国の宣王の異母弟 靖郭君田嬰の庶子として生まれた。

しかし誕生日が「5月5日」だったため、田嬰は孟嘗君の母に赤ん坊を殺すように命じた。


日本では5月5日は男の子の日として祝われる。

しかし古代中国では5月5日に生まれた男の子は、成長して戸口よりも背丈が高くなると父親を殺すと信じられていた。

田嬰はそれを恐れたので、5月5日に生まれた孟嘗君を殺せと命じたわけだ。


孟嘗君の母は田嬰の命令に表向きは従ったが、実際には孟嘗君を殺さずに、田嬰の知らない所で密かに育てた。

そして孟嘗君が成人した時、母は田嬰に孟嘗君を引き合わせた。

すると田嬰は激怒して配下の者に「この息子の首を今すぐ刎ねよ!」と命じた。


孟嘗君が理由を尋ねると田嬰は「5月5日に生まれた男子には悪い宿命があり、背丈が戸口よりも高くなると父親を殺すと言われている。子が父を殺すなどという間違いがあってはならないので、5月5日生まれの子供は殺さなければならない」と言った。

それを聞いた孟嘗君は答えた。

「間違っているのは人間ではなく戸口の高さです。だから戸口の高さを変えればいい。私の背丈が戸口へ届かなくすればいいだけのこと」



これを聞いた田嬰は孟嘗君を殺すことを考え直し、他の息子たちと競争させることにした。

頭脳明晰で人望もあつい孟嘗君は、他の息子たちを追い抜いてどんどん出世していき、斉の国のみならず中国全土に名が知れるほど人物になった。

そして秦の国に宰相として迎え入れられるが、この大抜擢を妬んだ秦の重臣たちの策略によって命を狙われることになり、秦を脱出する途中、夜明けを告げる鶏の声で開く函谷関を空音(偽りの声)で開け、無事に故郷の斉へ戻ることができた。

清少納言が『枕草子』で何度も引用した「遊子猶行於残月 函谷鶏鳴(夜明け前の月の下を旅人が行く、函谷関に鶏が鳴く)」のエピソードは、この時の様子を歌ったもの…


清少納言が好んで元ネタに使った漢詩「遊子猶行於残月 函谷鶏鳴」…

その中で米津玄師が目を付けたのが『枕草子』第一九四段「大路近なる所にて聞けば」だ。


 大路近なる所にて聞けば、車に乗りたる人の有明のをかしきに簾あげて、「遊子なほ残りの月に行く」といふ詩を、声よくて誦じたるもをかし。
 馬にても、さやうの人の行くはをかし。さやうの所にて聞くに、泥障の音の聞こゆるを、いかなる者ならむと、するわざもうち置きて見るに、あやしの者を見つけたる、いとねたし。


この段の前半が『灰色と青』の1番で、後半が2番ですね。


夜も明けきらぬ早朝に、大路に面した家の窓辺でぼんやりと外の音を聞いていたら、牛車に乗っていた身分あるお方が簾を上げ、空に浮かぶ有明の月を眺めながら「遊子なほ残りの月に行く」という詩を美しい声で歌っていたので、とても素晴らしいと思った。



明け方の 電車に揺られて 思い出した
懐かしいあの風景

電車とは牛車のことであり、牛車に乗ることが出来るのは貴族だけ。

だから米津玄師は垢抜けたお洒落な服装だった。

つまり「思い出した懐かしいあの風景」とは、漢詩で有名な「夜明け前の函谷関」のこと。



米津玄師が「牛車」に乗っていた「子安駅」も「大路」のすぐ近くにある。

子安駅のあたりは京急本線が首都東京の大動脈 第一京浜(旧国道1号)第二京浜(国道1号)の間を走っていて、まさに「大路近なる所」と言えます。



たくさんの遠回りを繰り返して
同じような街並みがただ通り過ぎた
窓に僕が映ってる

京の都(平安京)は大路が「碁盤の目」のようになっていて「斜めの道」が無い。

だから、垂直移動もしくは平行移動のみで行ける場所以外の場所へ行くには、たくさんの「遠回り」を繰り返すことになる。

そして、それぞれの区画は同じような壁や垣根で囲われていたから「同じような街並み」が延々と続く。


そして清少納言が明け方に見た「牛車の貴族」は、窓の外の「有明の月」を眺めながら歌っていた。

だから「電車の米津玄師」は、窓の外を眺めながら「窓に僕が映ってる」と歌った。

窓に映った米津玄師の白いインナーシャツの首元は、薄明るい景色の中にぼんやりと浮かんでいて、まるで「有明の月」のように見えるから。



米津玄師は天才か。


本当に恐ろしい男です。

この後に続く歌詞も、トンチが利いていて、実に興味深い。


君は今もあの頃みたいにいるのだろうか
ひしゃげて曲がったあの自転車で走り回った
馬鹿ばかしい綱渡り 膝に滲んだ血
今は何だかひどく虚しい



この部分も実にトリッキーだ。

ほとんどの者は米津玄師のカモフラージュ「この曲は『キッズ・リターン』をイメージしたもの」に騙されて「自転車=キッズ・リターン」と考えてしまう。

しかし北野武の映画『キッズ・リターン』の自転車は「ひしゃげて曲がった」という説明に当てはまらない。



そもそも米津玄師がイメージしたと言った「キッズ・リターン」とはビートルズの「GET BACK」、つまり「Get back to where you once belonged(あなたの元いた場所・故郷へ帰ろう)」のこと。



だから米津玄師は「窓に映った自分」で「月」を表現したのだ。

そしてそれは、ほんの短い間だけだった。

『GET BACK』冒頭の歌詞は、そう聞こえるからな(笑)


JOJO was a man who thought he was a loner
but he knew it couldn't last


ジョジョは自分をルナだと思っていた
しかしそれは長くは続かなかった

「loner(一匹狼)」と「Luna(月)」の駄洒落ですね。



笑えるよな米津玄師は。


ええ。なぜこんな面白いことを思いつくのでしょう。


そして「まうしょう君(孟嘗君)」も「キッズ・リターン」であり「Get back to where you once belonged(あなたの元いた場所・故郷へ帰ろう)」といえる。

秦の国で命を狙われ、函谷関を嘘の鶏鳴で通り抜け、故郷の斉へ帰った。


つまり「ひしゃげて曲がった」とは孟嘗君のこと。

有名な「ひしゃご(玄孫)の例え話」のことですね。


「私の背丈が戸口の高さに届かなくすればいい」という機転で父田嬰に殺されずに済んだ孟嘗君は、持ち前の頭脳とカリスマ的人間力で頭角を現していった。

そしてある日のこと、孟嘗君は田嬰にこんな例え話をする。


孟嘗君「父上は、子の子をどう呼ばれますか?」

田嬰「子の子? 孫だな」

孟嘗君「では、孫の子は?」

田嬰「孫の子は曾孫だ」

孟嘗君「それでは、孫の孫は?」

田嬰「孫の孫は玄孫(ひしゃご)だ」 

孟嘗君「では、玄孫の孫は?」

田嬰「玄孫の孫?えーと… 玄の次は何だったかな…」

孟嘗君「玄の次は師です」

孟嘗君「は?」


「玄の次は師です」というセリフは無かったと思いますが…


そうだったかな? では私の記憶違いか。


ひしゃご(玄孫)の例え話は、こう続きます。


孟嘗君「父上は玄孫の孫を何と呼ぶのか知らないのですか?」

田嬰「そんな先のことまでは知らん。第一、玄孫のことなど知って何の得になる?百年先の話だぞ?自分が死んだ後のことなど気にしても意味は無い」

孟嘗君「父上は三代の王に仕えて宰相を務められました。その間、斉の国土は少しも広くなっていないのに、父上の家だけは富み栄えて金銀財宝であふれています」

田嬰「それがどうした?そのお陰でお前のような妾腹の子もいい暮らしが出来ている」

孟嘗君「しかし、財宝はあり余るほどあるのに、父上の周りには一人の人物もいません。この家に出入りする者は父上にペコペコして胡麻をする者ばかりで、父上に玄孫の孫の呼び名を教えてくれるような師となる人物は一人もいないのです。本来、政(まつりごと)とは自分が死んだ後のこと、百年先の世に生きる者たちのことを考えて行うべきものであるというのに」

田嬰「・・・・・」

孟嘗君「父上は自分が死んだ後の子孫のことなど考えても意味は無いと言いましたが、それなら莫大な財産を後世に残しても意味は無いことになります。なぜ父上はそのような無駄な行為に満足しておられるのですか?意味の無い財産なら、この私にお譲りください。父上が財産を与えてくださるのなら、私は無駄にすることなく世のために役立ててみせましょう」


こうして孟嘗君は妾腹の庶子でありながら、田嬰の後継者に選ばれ一族の長になった。

そして、父から受け継いだ莫大な財産を使い、主(孟嘗君)のためなら命も惜しまず働いてくれる者たち、いわゆる「食客」を中国全土から集めて養った。

これが世に言う、孟嘗君の「食客三千」です。



様々な技能をもつ食客は「一宿一飯の恩義」を重んじる任侠の徒でもあった。

つまり孟嘗君のボディーガード、私兵も兼ねていたわけだな。

しかしそんな強者揃いの食客の中に、ちょっと変わった者が2名いた。

何の役に立つのかよくわからない男が2人いたのだ。


やがて孟嘗君の名声は斉の国のみならず他国へも広がり、秦の昭襄王(始皇帝の曽祖父)が宰相に迎え入れたいと申し出てきた。

秦と同盟関係を結ぶことは斉にとって大きなメリットなので、孟嘗君はこの申し出を受諾し、食客を引き連れて秦の都 咸陽へ入った。

しかしこの異例の人事を面白く思わない秦の重臣たちが、昭襄王に「孟嘗君は斉王家の人間だから、秦を利用して斉が大きくなることを考えているはず。下手をすれば国ごと飲み込まれます」と進言し、これを信じてしまった昭襄王は孟嘗君と食客たちの処刑を決め、宮城内に幽閉してしまった。


この危機を脱するために孟嘗君は昭襄王が寵愛する幸姫に協力を求めた。

昭襄王は幸姫の言うことなら何でも聞くので、そこにわずかな望みを賭けたのだ。

すると幸姫は条件を出してきた。

孟嘗君が咸陽入りする際に持ってきた宝物「狐白裘(白狐のコート)」をくれたら昭襄王に助命をお願いしてあげてもいいと。

これを聞いた孟嘗君は絶句してしまった。

狐白裘はすでに昭襄王に献上し、王の宝物庫で厳重に保管されていたからだ。


孟嘗君は言った。

「もはやこれまで。太平の世を作るという私の夢も、これで終わりか…」

すると食客たちの末席にいた1人がこう言った。

「まだ始まっちゃいねーよ」


その男は何も役に立たないと馬鹿にされていた2人の男の1人だった。

男は孟嘗君にこう言った。

男「今まで隠してきましたが、私の特技は狗盗、どんなところにも忍び込むことが出来ます。あなた様の寝室にもよく忍び込んでいました」

孟嘗君「えっ?そうだったのか?それでは私の大事な物がよく紛失していたのは…」

男「昭襄王の宝物庫に忍び込み、狐白裘を取ってきましょう」


男は厳重な警備をかいくぐり、見事に王の宝物庫へ侵入し、狐白裘を盗み出してきた。

孟嘗君は狐白裘を幸姫へ渡し、幸姫は昭襄王に孟嘗君らの助命をお願いした。

昭襄王は寵愛する姫の願いを聞き入れ、孟嘗君と食客たちは咸陽を脱出することが出来た。

しかしそれを聞いた重臣たちは、秦の内情を知る孟嘗君を斉へ帰すのは危険だと昭襄王に進言し、昭襄王は再び孟嘗君の殺害を命じた。


故郷の斉へ帰るため、孟嘗君の一行は夜の闇の中を急いだ。

わずかな月明かりだけを頼りに、夜道を転んで膝を擦りむきながら走っていた。

そしてようやく国境にある函谷関へ辿り着いた。

しかし函谷関は夜明けを告げる鶏の声で門を開く決まりになっており、いくら国境警備隊に頼んでも開けてはくれなかった。

考えを変えた昭襄王の軍勢が追って来ていることは知っていたので、もう残された時間はほとんど無い。

孟嘗君は天を仰ぎ、人生の虚しさを嘆いた…


「もはやこれまで。やはり秦の招きに応じるなど危険な綱渡りだったか。私の人生も、これで終わり…」

すると食客の中の1人がこう言った。

「まだ始まっちゃいねーよ」

それは何も役に立たないと馬鹿にされていた2人のうちのもう1人だった。


男は孟嘗君にこう言った。

男「今まで隠していましたが、私の特技は鶏の鳴き声を真似ること。あなた様が毎朝聞いていた鶏の声は、実は私のものだったのです」

孟嘗君「えっ?そうだったのか?確かに私の屋敷では鶏を飼っていなかったから変だと思っていたが…」

男「私の鶏鳴で函谷関を開けてご覧に入れましょう」


男の鶏の鳴き声は本物そっくり、いや、本物以上の鳴き声だった。

その声を聞いた函谷関の警備兵は、夜明けだと勘違いして門を開け、孟嘗君は秦を脱出し、故郷の斉へと帰ることが出来た。

食客たちは孟嘗君の先見の明に驚いた。

何の役にも立たない2人を養っていたおかげで九死に一生を得たと。

この「鶏鳴狗盗」の逸話が『史記』によって広まり、海を渡った日本でも一般教養の漢詩となり、「史記」と「四季」の駄洒落から始まった清少納言の『枕草子』で何度も引用されることになった…

遊子猶行於残月 函谷鶏鳴


そして米津玄師は「ひしゃげて曲がったあの自転車で走り回った、馬鹿ばかしい綱渡り、膝に滲んだ血、今は何だかひどく虚しい」と歌った。

すべて孟嘗君のこと。


だから最後は「今も歌う、今も歌う、今も歌う」なんですね。

何百年も前の出来事が歌になり、それが時代を越えて歌い継がれていった。

少し手を加えられたり、アレンジされながら…


歌とはそういうものだ。

いや、歌だけではなく芸術全般、人の仕事「アート」はすべてそう。

多くの人たちの手によって、少しずつ形を変えながら、受け継がれていく。


それが『BOOTLEG』のテーマ…


それでは『灰色と青』の2番を見ていこう。

いったい米津玄師は菅田将暉に何を演じさせているのか…



つづく




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