日の名残り第63話1

「ぼくたちの失敗」~『夜想曲集』#2~カズオ・イシグロ徹底解剖・第63話

さて、居間を物色したレイモンドは、キッチンへ向かった。

それにしても居間で発見した3枚のCDの秘密には驚いたね!

まさかあんな暗号になっていたとは!

特に「フレッド・アステア」は、サブイボMAXやったで。

有り得ないよな…

何度も言ってるだろう。

イシグロ文学においては「有り得る」ことなのだ。

太宰のように。

さて、レイモンドはキッチンテーブルの上に置かれていた「紫のノート」を目にする。

もちろんエミリのものだ。

もうパターンは読めたで!

「紫のノート」もコレのことやろ!

「十戒の石板」は、濃いサーモンピンク、つまり「紫色」っぽく描かれることもあるんや!

それあるね。

も?

レイモンドは「ノートに紫色カバーがついている」と説明する。

別にカバーなんかどうでもいいことなのにね…

せやな。臭うわ。

わかった!

「レイモンド・カーバー」の駄洒落だ!

その通り。

「紫色のノート」とは、レイモンド・カーヴァ—の短編集『What We Talk About When We Talk About Love』(邦題:愛について語るときに我々の語ること)のことでもあるんだね。

『What We Talk About When We Talk About Love』
Raymond Carver @Amazon

あの時、第2話にはカーヴァ—作品の小ネタが大量に使われていると言っていたが、やっぱりそうだったんだな。

特に表題作の『愛について語るときに我々の語ること』のネタは、たくさん使われているよね。

そういや、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』も、この短編を劇中劇に使っとったな。

《BIRDMAN or The Unexpected Virtue of Ignorance》

話題になったよね、この映画!

自身の代表作をセルフパロディにして、落ち目になった俳優が復活の舞台を作るって構造は、ジュディ・ガーランドの『スタア誕生』と同じだよね。

ジュディ・ガーランドの場合は、自分の「美しい部分」と「ダメな部分」を分離させて「夫婦」という設定にして、「ダメ」なほうだけを殺しちゃったけど。

昨日の話なのに、遥か昔のことのように感じるのはなぜ?

『スタア誕生』の劇中劇『Born in a Trunk』メドレーは「イエスの物語」を逆回転させたものだった。

十字架での磔シーンから始まって、クリスマスで終わるというものだったね。

そしてカーヴァ—の短編『愛について語るときに我々の語ること』も、『バードマン』の劇中劇として同じような使われ方をされる。

この短編も「イエスの愛」について書かれたものなんだよね。

そ、そうなのか?

メル&テリとニック&ローラという二組の夫婦が、ギンギンに冷えたジンを飲みながら「愛」について語り合う小説だ。

まずテリがDVだった元彼エドの話を始める。彼女をボコボコにしながら「愛してる!」って叫ぶワイルドな元カレだ。

夫メルは、そんなのは愛じゃないと言う。暴力と愛は結び付かないとね。でもテリは「そういう愛もある」と譲らない。

でもテリと付き合い始めた頃のメルは、エドが怖くて拳銃を持ち歩いていたんだ。エドが自分たちを邪魔しようとしたら撃ち殺そうと考えていたんだね。

矛盾してるじゃんか。

自分の愛の成就のためならエドを殺してもいいなんて(笑)

カーヴァ—は「愛の教え」であるはずの聖書の中に潜む「暴力」を、この短編で描こうとしたのだ。

イエスも「愛」を表現するために「暴力」を使ったじゃないか、と。

優しいことだけが「愛」なのか、と。

暴力?

メシアの預言を成就させるために、弟子のひとりを殺したでしょ?

自ら手を下したわけじゃないけど、死を免れない「裏切り者」に指名した…

ユダか!

さらには、わざと守旧派が激怒するような行為を繰り返し、裁判と処刑を自ら演出した。

人々に「怒り」と「暴力」を誘発させることで、イエスは自分の「愛」の偉大さを対照的に描いてみせたわけだ。

つまり、そもそも「愛」とは「暴力」と切り離せないもので、実は表裏一体なのではないか…とカーヴァ—は言いたかったわけだね。

身の危険を感じてローマから避難したペトロに「戻って十字架に架けられなさい」と指示したのも、一種の「暴力」だよな…

そしてDV男エドは自殺をする。愛を叫びながら。

しかし即死できず、運ばれた病院で「三日目」に死ぬ。

三日目!もうエドは「イエスの投影」で間違いないね!

この話のあとに、今度は老夫婦の話になる。

交通事故で瀕死の重傷を負い、顔まで包帯グルグル巻きになった老夫婦の話だ。

そして4人は何とも言えないムードになり、微妙な空気のまま物語は終わる。

そういえば、おかえもん!

『バードマン』のラストってどう思った?

ネットでは、みんな思い思いの解説ブログを書いてるよね。

僕は映画を観てないんでよくわからないけど、ざっとあらすじを読んだ感じでは、クリストファー・ノーランの『インセプション』っぽいって思ったね。

やっぱりそうきたか。

ノイローゼ気味の主人公がバードマンの幻影に付きまとわれている描写なんて、まさに亡き妻の幻影に悩まされるディカプリオそっくりだし…

ラストも「夢か現実か」よくわからないような作りになってるらしいし…

そっか!

『インセプション』もラストが「夢か現実か」どちらでも取れるような作りになっていたもんな!

コマが回り続けたまま終わっちゃったから!

でも、そこが「落とし穴」だったんだよね。

そもそもあのコマが一番の「トリック」だったわけだから。

映画を観る人は、なぜかあのコマが「夢と現実を区別できる」と思い込まされてしまうんだ。

実に鮮やかな「インセプション(記憶植え込み)」だったね、クリストファー・ノーランの。

君たちは『インターステラー』のラストシーンも「夢」説を唱えてたよな。

病室にいた人たちの様子が『インセプション』の夢の中の人の反応そっくりだったからと…

カヅオさん、なんで知ってるの!?

君たちの「クリストファー・ノーラン映画解説シリーズ」は、ずっと向こうで読んでたんだよ。調査のためにね…

しかし本シリーズに負けないくらい驚きの連続だったよな…

そういえば、まだ『ダンケルク』観てなかったな。

早くこっちを終わらせて取り掛からないと…

じゃあ、さっさと話を進めようぜ。

はい…

さて、一度は「覗き見」を躊躇したレイモンドだけど、やっぱり中身が気になり、ついにノートを読んでしまう。

レイモンドは、まずこんな一文が気になった。

「マチルダへの電話——まだなら。していけない理由ある⁇やりなさい!!」

もうすぐ出て来るチャーリーの浮気相手か?

どうだろうね。

彼女は名前が明かされないから何とも言えない。

次に気になったのは、こんな一文。

「フィリップ・ロスはクソ。さっさと読んでマリオンに返せ!」

クソ!?

フィリップ・ロスって誰?

アメリカの作家だよ。

アメリカのユダヤ人の苦悩を書かせたら右に出る者はいない。

Philip Roth(1933 ‐)

このオッサン、そんなにクソ野郎なのか?

まさか。

村上春樹以上に毎年ずっと「ノーベル文学賞」最有力候補と言われ続けている人だよ。

ただ、言うことがちょっと「過激」なんだ。

以前、電子書籍が登場した時に「本は死んだ」と発言し、物議をかもした。

同じユダヤ系の作家であるポール・オースターは、ロスにこんな反論をしたんだよ。

Paul Auster《Why Roth is wrong about the novel》

やっぱクソオヤジじゃんか(笑)

ロス独特の言い回しなんだ。愛情の裏返しのね。

わざと嫌われるようなことを言わないと気が済まないタイプの人なんだ。だけど彼の言うことって、どこか物事の核心をついてることでもあったりするので、偉大な作家として尊敬されている。

そして有名な無神論者でもある。

イシグロは、そんなロスに敬意を表し、親愛をこめて「クソ」呼ばわりしたんだと思うよ。

たぶんプライベートでも仲がいいんだろう。

そうでなければ「クソ」などと書けるわけがない。信頼関係の賜物だ。

そういえば…

「フィリップ・ロス」といえば、最高級赤ワイン「シャトー・ムートン・ロートシルト」の創業者フィリップ・ロスチャイルドことフィリップ・ド・ロチルド氏のことも想起される…

ナチス占領時に海外へ亡命する際、フィリップの奥さんは「私は非ユダヤ人でカトリックだから大丈夫」と言ってフランスに留まった。だけど「ロスチャイルド」という名前だけで強制収容所に送り込まれた。悪名高きラーフェンスブリュック強制収容所だ。そしてそのまま獄死した。

戦後にフランスへ戻ったフィリップは、奥さんの行方を懸命に捜し、その事実を知らされて衝撃を受ける。

その後フィリップは、それまで以上にワイン造りに没頭したらしい。後悔と悲しみを胸に…

可哀想に…

マリオンは「マリア」の変形だね。

ファーストネームにもファミリーネームにも使われるんで、どっちかはわからない。だからさっきの「マチルダ」と同一人物の可能性だってあるよね。

そしてレイモンドは、エミリが自分の来訪を嫌っているように見える記載を目にする。

さらには、こんなことも…

「ぐちぐち王子にワインを」

ぐちぐち王子?

太宰治『駆込み訴え』のユダのことか?

かもね。

でも僕は「レイモンドの誤読」説を唱えたい。

エミリのノートの内容は備忘録のような「走り書き」なので、ホントは別々のことが書かれていたものを、レイモンドが誤って「つなげて読んでしまった」んじゃないのかなって思うんだ。

原文を見てないから何とも言えないけど…

有り得るよな。

ショックを受けたレイモンドは、思わずそのページを手で握り潰して、クシャクシャにしてしまう。

そこにチャーリーから電話がかかる。

フランクフルト行きの飛行機が遅れていて、チャーリーはまだ空港にいた。

レイモンドはノートの件を伝えようとするが、チャーリーは一方的に「俺には他の女などいない」という話をする。

そしてフランクフルトの出張も「偽装」ではなく「ポーランドの代理店を替える」という仕事のためだと力説する…

ポーランドの代理店?

意味深だよな。

歴史上でイギリス人がドイツに出張して「代理店」を替えたのは「チェコスロバキア」やったな。

しかもあれはフランクフルトやのうてミュンヘンやった。

1938年の「ミュンヘン会談」だね。

イギリスのチェンバレン首相がミュンヘンを訪れてヒトラーと会談し、ナチスドイツによるチェコスロバキアのスデーデン地方の併合を認め、ナチス政権のユダヤ人政策にも「お墨付き」を与えたんだ。

だけどポーランドの歴史において、もうひとつ大きな「代理店の交替」がある。

17世紀前半のことだ。

17世紀?

「国教」だな。

17世紀にプロテスタントからカトリックへ戻ったんだ。

その通り。

お隣ドイツで巻き起こった宗教改革は、ポーランドにも吹き荒れた。

16世紀の後半には、ポーランドの有力貴族がほとんどプロテスタント化していて、事実上の「国教」となっていた。

だけどイエズス会などの尽力もあり、17世紀中頃までには再びカトリックの国に戻ったんだ。

なるへそ~

次にチャーリーは「じゃあ男がいるんじゃないかって思ってるだろう?」と絡んでくる。

レイモンドは「チャーリーの男」だと勘違いし、「君がゲイだなんて思ったことは無いよ。あの最終試験のあとの《事件》の時だって…」と言う。

二人は接吻した仲やさかいな。

ゲッセマネで。

次にチャーリーは、エミリが密かに思いを寄せてる男たちの名を挙げ、今のエミリでは相手にもされないだろうと笑う。いい年して高望みし過ぎだと。

レイモンドはようやくノートの件を伝える。

するとチャーリーは自分も以前ノートを覗いてしまったことがあり、それについてこっぴどく怒られた話をする。

金玉鋸挽き&叩き割りの刑(笑)

どんなプレイやねん。

昔の刑罰じゃないのかな?

キリスト教が迫害されていた時のね。棄教を拒んだ者は体を切り刻まれていたみたいだから。

それにナチスの強制収容所でも、同じようなことが行われていた。麻酔なしで切り刻んだり、棒や鞭で撲殺するんだね。

人間と言うのは、時に信じられぬほど残酷になれるのだな。

正義や善の名のもとに。

レイモンドは、すべてアルコールのせいにしてしまおうかと考える。

あまりの衝撃的な内容に、思わず酒を飲まずにはいられなくなり、怒りに任せてノートをぐちゃぐちゃにしてしまったと誤魔化そうと考えたんだ。

自分のほうこそが、裏切られた被害者だと…

こんな興味深い描写がある。

なにしろこれを書いたのは、ぼくへの愛情と友情を持ちつづけていてくれると信じていた人物だ。その愛情と友情を頼りに、見知らぬ土地で、孤独で、最悪の瞬間も堪え抜いてきたのに…

ん?

これって…

新約聖書におけるユダの記載のことちゃうか?

自分はイエスに指名されて「裏切り者」役を引き受けたっちゅうのに、何の労いも無く一方的に極悪人扱いされとることにイラついとるんやろ?

だね。

つまり「エミリのノート」とは、新約の「福音書」ってことになるね。

そしてレイモンドはこの「泥酔計画」にはリスクがあるとして却下する。自分の中に眠っている望ましくない「何か」が目覚めるような予感がしたんだね。

また「裏切り者」モードになって、「学生時代のあの時」みたいに抱きついてキスしちゃうかもって思ったんじゃない?

きっとそうだろうね。

そしてまたチャーリーから電話がかかってくる。

今度はさっきと違って落ち着いた口調だ。チャーリーは「空港にくるといつも興奮してしまうんだ」と言い訳する。

ここも妙やな。

チャーリーは世界を股に掛けるビジネスマンやろ?

初めて海外旅行に行く子供じゃあるまいし。

たぶん「フライト」ってのは、これの喩えなんじゃねえか?

《La Anunciación》Fra Angelico

じゅ、受胎告知!?

つまり、こういうことだよ。

「フライト」とは地上世界への「降臨」のことで…

「飛行機」とは「聖霊」を意味し…

「空港」は降臨前の「待機所」みたいなところ…

なるへそ~!

言われてみれば、そんな感じ!

そしてチャーリーは「おれたちの作戦」についてレイモンドに念を押す。

真実をねじまげて自分を取り繕おうなんて考えるな、と。

自分をよく見せようなんて思ったらダメだと釘をさす。

ズルいね(笑)

あの時みたいに「汚れ役」を押し付ける気だ。

しかしチャーリーはレイモンドの状況や考えとることが手に取るようにわかっとるみたいやな。

イエスだからね。何でもお見通しなんだよ。

そしてレイモンドに「エミリと音楽の話だけはするな」と告げる。

「あいつの好きなノスタルジックな音楽はだめだ。万一、向こうからその話題を持ち出したら、とぼけてくれ」

と指示するんだね。

「ノスタルジックな音楽」って、旧約聖書のトーラー、モーセ五書や詩篇のことでしょ!

そう。

レイモンドがエミリの部屋に入り浸り、熱く語り合ってた「ブロードウェイやハリウッドのミュージカル音楽」とは、まさに「旧約聖書」のことだった。

新約聖書と違って、歌われることが前提に書かれたものだからね。

そしてチャーリーは「隣人」の話を始める。

いつも呼んでもないのに勝手に家に上がりこんでくる、喜ばしくない隣人アンジェラとソリーの話を…

臭くて行儀が悪いラブラドール犬「ヘンドリックス」の飼い主だな。

当然ながら、なんか臭うぞヘンドリックス!

誰のことやろな、ヘンドリックスっちゅうのは。

ジミヘンか?

たぶん神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世だよ。

「ヘンドリックス」というのは「ハインリヒ(家の主)」のオランダ語版なんだ。

Heinrich IV.(1050 - 1106)

なんでこの人なの?

徳川綱吉みたいに犬好きだったとか?

バチカンに「犬」呼ばわりされてたんだよ。下品で横暴だったから。

ハインリヒ4世は権力強化のため、バチカンに無断でイタリアやドイツの司教たちを自分の息のかかった者たちに置き換えた。

これに教皇グレゴリウス7世が激怒する。いわゆる「叙任権闘争」が勃発したんだ。

なんか聞いたことあるハナシやな。

神聖ローマ帝国は「皇帝派」と「教皇派」に分かれて、激しい争いを始める。そして教皇は、ハインリヒを破門してしまった。当時においては「死刑宣告」みたいなもんだね。もちろん地獄行きの。

教皇は新しい皇帝を決める会議のためバイエルンへ向かった。ハインリヒとしては、その会議の前までに破門を解いてもらわなければいけない。そこで、移動中の教皇のもとへ駆け付けたんだ。

教皇はハインリヒが自分を殺しに来たんじゃないかと思い、近くのカノッサ城に逃げ込んだ。

カノッサ城は女城主マチルダの城で、信仰心の篤い彼女は教皇を匿った。

カノッサ!?

カノッサの屈辱かァ!

その通り。

ハインリヒは許しを請うため、みすぼらしい格好をして、四つん這いになり、城門の前で謝罪し続けたという。

そしてついにグレゴリウスに破門を解いてもらった。

横暴で犬畜生呼ばわりされてた王様が、飼い馴らされた犬になっちゃったんだ!

ポーズだよ。

破門さえ解かれたらこっちのもんだ。

すぐさまハインリヒは、教皇派についていたドイツ諸侯に「意趣返し」をし、ローマを包囲してグレゴリウスを追放する。グレゴリウスは再びローマの地を踏むことなく、そのまま亡くなってしまった。

うわ~!屈辱の代償は高くついたんだ!

というわけでチャーリーはレイモンドに「凶暴なヘンドリックスが部屋を暴れ回ったことにしろ」と作戦を伝授する。

「フロアスタンドを倒して、キッチンの床に砂糖をぶちまけろ」とね。

そして、以前にヘンドリックスが飾ってあった高価な写真集に噛みついて皺くちゃにしたことを再現すればいいとアドバイスした。

これって、まさか…

これのことだよな。

《Driving of the merchants from the temple》Scarsellino

み、宮清め!?

確かにフロアスタンドが倒されかけてて、砂糖っぽいものが床にぶちまけられている!

男が押さえてなければ、倒れてるよな…

この「宮清め」のモチーフも、レイモンド・カーヴァーは「愛と暴力は表裏一体」の例として使っていた。

ちなみにアラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』でも使われてたね。

一部の評論家は、あれを「二人は同性愛関係だ。SM趣味なんだ」と解説したけど、そうじゃなかった。「イエス」を投影させるためだったんだよね。

あの映画も、完璧に「イエスの生涯」をなぞったものだったからな。

有名なラストシーンは、さっき紹介したフラ・アンジェリコの『受胎告知』の再現だったし。

レイモンドは、まるでチャーリーに操られているかのように「隠蔽工作」を行い、疲労感に襲われて眠ってしまう。

そして電話で目を覚ます。今度はエミリだ。会議が長引いて、予定より一時間遅くなりそうだとレイモンドに告げる。

この時、エミリはなぜかレイモンドのことを「ダーリン」と呼んだ。

なんでだろう?

なんでだろうね?

出勤する前にエミリは「あの頃の自分」に戻っちゃったからかな。

うたた寝していたレイモンドも、そこのところに気付かなかった。

この短編に出て来る大人は、みんないい年してダメな奴らばかりやな。

この歌みたいや。

森田童子《ぼくたちの失敗》by 稲田麗奈

エミリとの電話のあと、レイモンドは改めて部屋の「惨状」を眺める。

でも、どう考えても犬の仕業には見えない。困り果てていると、チャーリーから電話がかかってきた。

今度はフランクフルト空港からだ。なかなか荷物が出て来ないので電話をしたとチャーリーは言う。

レイモンドは「指示通りにやってみたが、凶暴な犬が暴れたようには見えない」と訴える。

チャーリーはしばらく考え「さすがに他人の部屋を滅茶苦茶にしろと言われても遠慮してしまうよな」と言う。

そして部屋の中の「思う存分破壊してよいもの」リストを挙げる…

まずは「陶製の牛」の置物やったな。

ラゴス土産。

それって、あれのことじゃない?

モーセが怒った金の子牛像。

その通り。

「十戒」を授かる際に、モーセはシナイ山に40日間も籠っていたので、下で待っていたユダヤの民は不安になり、金の子牛を作ってお祭り騒ぎをしてた。

《The Adoration of the Golden Calf》
Nicolas Poussin

それを見たモーセは激怒して、十戒の石板を叩き割り、金の子牛も破壊した。

そして、この偶像崇拝に加わった者3千人を処刑した。

厳しい~!

偶像崇拝は大罪だからな。

さらにチャーリーは、赤い革のソファーも切り裂いて、中の詰め物をぶちまけてしまえと指示する。

そしてレイモンドに、ある秘策を授ける。

それが「犬の臭い」作戦。

古い革のブーツを鍋の中で特性レシピで煮込んで「犬臭」を発生させるというものだ。

出た!太宰治のブーツ!

確かに「太宰治のブーツ」が元ネタになっているんだけど、もうひとり元ネタになった「ブーツ」関係者がいる。

もうひとり!?

これまで幾度もイシグロとの関連性を紹介してきた、あの人だ…

ぼ、ぼ…

「ぼぼ」とか言ったらアカン。

ここは九州や。しかも女子修道院やで。

ち、違う!

ボブ・ディランと言おうとしたんだ!

ボブ・ディラン!?

その通り。

ボブ・ディランの名曲『Boots Of Spanish Leather(スペイン革のブーツ)』だ。

Bob Dylan《Boots of Spanish Leather》
by Trevor Willmott & Juliana Richer Daily

そっか!レイモンドはスペインから来たんだ!

この歌のためにイシグロはスペイン在住という設定にしたんだな!

でも実はこの歌、「スペイン」とは何の関係もない歌なんだ

ハァ!?

タイトルもサビも「スパニッシュ」って言ってるじゃんか!

あれは「暗号」なんだよ。

表向きは「離れ離れになる男女」の物語を歌っているんだけど、本当は全然違う「ストーリー」が歌詞の中に隠されているんだ。

全然違うストーリー!?

遠く離れた「裏切り者」を十字架にかけるという歌なんだよね…

う、裏切り者を十字架に!?

そうなんだよ…

この歌はとても人気のある歌で、昔から多くの人に日本語に翻訳されているんだけど、この歌詞の本当の意味を理解している人は残念ながら見当たらない…

だから僕がこの機会にきちんと解説しようと思う。

やっぱこのシリーズは、こうでなくちゃな。




——つづく——



『夜想曲集』(@Amazon)
カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳


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