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偶然のような必然、のような偶然

 本屋が好きだ。それも紀伊国屋書店とかジュンク堂のような大型の書店。都市にあるような大型の図書館でもダメだ。とにかく大きな本屋に身を埋め、てくてくと無作為に歩き回りながら、目についた本をほとんど衝動的に購入して、勢いで読み切る。そういう「読書」が好きで、なんならほとんど偏愛的な趣味とも言える。

 日が傾き視界を突き刺す西日が1日の終わりを予告する頃、今日も大型の本屋に出かけた。読みきっていない山積みの本に一瞥をくれながら重い鉄の扉を開け玄関を後にする。後ろめたさ、のようなものはまるでない。女性と本は違う。読書については、一夫多妻制を裁く法律は存在しない。文学的不倫。不倫相手から得た生きた知識が、別の女性との関係性において、単独ではあり得ない着想をもたらすことが往々にしてある。もちろん、読書の話ね。

 そういう瞬間のアドレナリンというか、脳汁を求めて本の世界に心を傾けているのだろう。まるで新たな未確認の惑星を発見してしまったかのような、静謐な激情がそこにはある。日常ではほとんど眠っているかのような心臓が突如激しく鼓動し、鼓動が生を思い起こさせ、急ピッチで送られる血液がつま先から髪の毛の先まで身体中を巡り、あらゆる脳細胞とシナプスが急激に結びつき新たな反応を起こす。まるで別の誰かになってしまったような、あるいは世界の秘部にたった一人到達してしまったかのような興奮。刹那、興奮を追いかけて、孤独と虚無がぼくを襲う。

 そういう一連の興奮と孤独を求めるには、大型の書店が丁度いい。書店の地図には目もくれずにランダムに歩き周り、ピンと来た本だけ手に取り査定する。Amazonでレコメンドされた本での読書体験からは決して得られない偶然性が、そこにはある。新宿の雑多に人々が行き交う交差点の中で、運命の一人を見つけるような偶然性。そういう偶然は、だいたい人生において必然的でもある。だから、大型書店がいい。できれば1フロアに収まる広大な敷地の本屋。

 また、紙の活字だけが世界の秘密へとぼくを誘う。Kindleじゃダメだ。Kindleで手軽に済ませた読書からはあり得ない達成感と疲労感。後半になるにつれてどんどん次のページを早くめくりたくなって、終盤のページはクシャっとなってしまうような至高の読書体験。12月25日直前にカレンダーが気になって仕方がない小学生のような無邪気さと純粋さが本に「跡」をつけるのだ。Kindleには、跡は残せない。無機質なマーカーを除けば。

 そんな読書体験を求め今日は、『西田幾多郎 無私の思想と日本人』という文庫本を手にとってレジに並んだ。なんとなく、ピンときたからだ。特に理由はない。まだ1ページも読んでいない。他に購入した小説から読み進めることにした。しかし、この文章ではまだ読んでいない西田幾多郎から書こうとしている。

 理由はおそらく一つ。著者が佐伯啓思さんだったからだ。彼のことは深くは知らない。本屋を出て近くのスターバックスに入り、購入した本をぱらぱらと流し見しているときに著者の名前が目に入った。「佐伯」という文字列。はてどこで聞いたんだっけな、と記憶から検索する。何度か聞いたことのある名前。著書が多いから有名なだけかもしれない。京都大学大学院 人間・環境学研究家教授、『反・幸福論』...

 そうか、思い出した!以前、京都に赴き京大生と話した時に出た名前だ。京大の法学部生と、明治期の脱亜入欧に未だに洗脳された日本人の浅はかな幸福論と想像力を嘆きながら三条で日本酒を飲んだ日に聞いた名前だ。虚無主義の中で強く生きる主張と異なる角度で生きる「無」の思想についての対話で出てきたんだった。不勉強ながら名前程度しか知らなかった佐伯先生に強い興味を持ったはずだったが、それ以上に日本酒の15度に心地よく酔わされて意識の彼方へ消えてしまっていた。そうだ、佐伯先生からはじめて「日本的な幸福」とか、そもそも「自由」「幸福」という西洋の概念に依らない何か、を探そうと決心したんだった。しかし、おちょこに入った春鹿とそのとっくりのせいで、忘れていた。

 「佐伯啓思」の名前は頭から、少なくとも顕在意識からは完璧に消え去っていた。しかし、ほとんど反射的に手にとった本は偶然にも「佐伯啓思」の文字が印刷されていた。偶然にも。確かに、無意識に刷り込まれた「佐伯啓思」のフィルターが潜在的な領域で判断を下してぼくの手を動かしたという認知科学的な説明はできる。そういう意味では必然的な出来事だ。それでも、その「偶然のような出来事」には一人感動を覚えざるを得ない。静謐で一滴分の揺らぎもない泉から、光り輝く宝石が揺らぎないまま現れるかのような神秘性。

 思えば、人生はそのような「偶然的な必然」に溢れていた。たった25年の人生ではある。それでも四半世紀を経た時間の中で、いくつか「偶然的な必然」に出会い得る機会はあっただろう。あるいは、一般的な四半世紀よりは「偶然的な必然」に恵まれた(?)25年だったように思う。もちろん、「一般的な四半世紀」なんてものが存在すれば、の話だが。空を切るような相対化は誰も幸せにしないよな。

 ここで、もう一つくらい「偶然的な必然」を過去から引っ張りだしてきて光を当てることはできる。そして、物を書く上ではそういうことが定石なのだろう。このまま終わると後味が幾分悪すぎる。一方で、これから書き足すのはかなり冗長な感じもする。そこでおれは、書かない、という意思決定をする。

 つまり、「偶然的な必然」から思い起こされる感傷的な物語を立ち上げることをしない、ということだ。一つの気づきから物語が立ち上がらぬまま筆を置くことになる。理由は簡単だ。偶然かのようにみえる必然は、それほど個人的で秘密めいているからこそ価値のあるものなのだ。物語の姿を持って共有された瞬間に、それは「ただの物語」へと形を変えてしまう。

 生きる中で起きる偶然。なんなら、世界のほとんどは偶然が構成してるかのようにも見える。ニュートンの目の前でりんごが落ちなかったら?松本と浜田が同じ学校じゃなかったら?父親と母親が出会わなかったら?こうして、偶然なのか必然なのか判断ができなくなった事象ばかりが募り人生と世界を休みなく構築し続ける。たぶん、この文章に目を通していることも一つの偶然であり、必然なのであろう。インターネットの広大な海において、たった一つの記事を最後まで読み通す確率なんて、昔ながらの電卓ではお手上げの確率だろう。

 そういう、「偶然のような必然」、もしくは「偶然的必然のような偶然」は今日も世界をひっそりと彩る。そういう個人的な彩りに目を向けてほしいな。だから、物語は立ち上がらかった。それは「偶然的必然のような偶然」なんだろう。あなたの中にある物語を存在させるための、偶然。

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