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魂の下書きばかりが積もり

 「文章」を書きはじめてから3ヶ月ほど経った。村上春樹が「結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしかすぎない」とそのはじめての小説『風の歌を聴け』で書いたように、ぼくにとって文章は自己療養が目的であり、自己療養へのささやかな手段でもあるようだ。だから、定期的なリズムで文章を生み出すことは難しい。療養とは、ある種の不規則性への対処という性質を持つから仕方がない。

 引用した村上春樹は、ランダム性とは対極の手段を取って執筆をしているという。『走ることについて語るときに僕が語ること』という、 「文章を書く」ということについてのエッセイ集では、彼が非常に規則的なリズムで文章を世界に生み出していることが書かれていた。例えば、ほぼ毎日のランニングで週に60kmほど走ったり、仕事を午前中に集中して取り組む習慣を形成していたり、就寝時間も一定で素早かったり。とにかく、ランダム性とは無縁のところで作品を生み出し続けているように思えた。

 「狼だぬき」という匿名の存在においても、そのように安定性を持って文章を生み出そうと試みた時期があった。3ヶ月前の初期においては、ほとんど毎日散文を書いてはnoteの海に放り投げた。あるいは、文章に取り組む時間帯を固定してみた。日々の出来事や、付随する心の機微を素早く正確にキャッチして、とにかくテーマを持った文章を起こせるように意識を集中させた。

 ある時、文章を書くことを中心に世界が回転してしまっていることに気づき、それはぼくにとって文章が自己療養からはるか遠く離れた地平に来てしまったことを気づかせて、うらぶれた気持ちが日々を飾って、毎日投稿することを止めてしまった。自己療養ではなく、それはほとんど使命感や義務のようになってしまっていた。そうなると自己療養の目的でありささやかな試みであった文章ですらぼくを生きづらくさせるものになるのだ。

 そうして始めたのが、『瞬間日記』というアプリだった。始めてから1週間ほどになる。仕様は恐ろしくシンプルで、メモ帳の要領で使える。ワンタッチでアプリを開き、もうワンタッチで入力画面に至り、刹那的な文章を認めて、最後のワンタッチで「○月△日の瞬間日記」として貯蔵される。1日の上限なども特に存在しない。フォローもフォロワーも自分一人きりのTwitterみたいだ。もちろんブロックも凍結もない。自分だけの精神の小部屋を小さな端末の中に構築することができる。

 ぼくは文章を書く時、大凡こういうプロセスを経る。心の中とか魂の根元とか、そういう深く暗い無意識みたいなところが違和感を訴える。そしてぼくは文章でその違和感を象るという方法を通して、違和感に輪郭を与えていくのだ。書き始めるときには、自分が一体何を書きたいのかはちっともわからない。それでも書き終えるころには、少なくとも概要というかアウトラインというか、それこそ「形」を与えることができる。

 ただ、noteのような「読者がいる」前提で書かれる文章は異なるステップが存在する。編集であり、推敲であり、デザインである。自分と読者である誰かには、異なる世界が、宇宙が広がっている。そしてそれを異なる言語(あるいはメディア)を通してキャッチして何とか形にしているのである。つまり、心とか魂の深淵をキャッチする自分の文章と、他者に伝わるコミュニケーションとしての文章は、質的に役割も特性も異なるのだ。

 誰かに伝わる、伝える全体で構築された文章では、深い深いインサイトには到達し得ない。それは、あくまで「伝わる」という目的が入り混じった濁った内省だからだ。魂の深淵に到達するには、深く内側に潜ることが要件となる。決して伝わらないような荒れた、うらぶれた、醜い言葉とテキストこそが、自己内省の結実であり、魂の代弁としての文章なのだ。

 下書きばかり積もる。noteというメディアの下書き欄に顕在化した下書きの背景には、数十倍にも及ぶ下書きがどこか別の場所に(Twitterだったり、瞬間日記だったり、Campusのノートの端っこだったり)存在している。そして、魂の内側にはもっと膨大で醜く人間らしい下書きが眠っている。その存在に自ら気づいて、雪解けを促す3月の太陽が世界を満たして大地の下から生命が息吹を上げるように、自分自身が魂の内側に陽光を向けなければ行けない。魂が下書きのままの内は、ぼくらはいつまでたっても自由に成れない。

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