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自分を説明したくないから、物を書くしかなかった

 自分のことを説明したくない。この感情がいつもコミュニケーションを邪魔する。社会への適合を阻害する。自我と社会に越えようのない絶望を生み出す。表面的に発してしまった言葉は、曲解され、あるいは深淵まで理解を誘うことなく関係性へ齟齬を生む。結果、ぼくは「コミュ障」の烙印を押される。コミュニケーションは関係性の問題なのに。

 物事の説明は結構うまい方らしい。ずっとそう言われてきた。なぜ積分をすると面積を求められるのか、とかどうして日本の教育は画一一斉授業になったのかとか、東洋思想と西洋思想の本質的な違い、とかだ。自分から切り離された(つながっているのだが)対象について、必要十分な情報を集め、論理的に並び替え、最も伝わりやすい言葉を選び、重要なポイントで抑揚をつける。そうなると、すべからく「説明がうまい人だ」という評価になる。

 すると、徐々に困ってくる。確かに、自分とは別の対象について話すことはできる。しかし、その要領の良さや分かりやすさとは別に、「自分自身のこと」となるとてんでうまく説明できない。次に話すべく言葉が浮かばない。浮かんでも、その言葉と、その並びが果たして自分自身を適切に説明をできているのかが気になる。論理的でない気がするし、多角的に表現できていない気もする。そもそも、論理的である必要があるのかも分からず、適切さの希求に思考を奪われた先には、しどろもどろ。端的で、論理的なプレゼンテーションとは別に、ただの「喋り下手」に格下げ。

 「話したくない」という感情、欲望、自我の存在。いや「話せない」という実感。自分というものがまだまだよく分からない。首の座った赤ちゃんが、世界の様々な物に触れて世界と自己の輪郭を形成していくような過程をまだ終えていない気もする。

 確かに、ある事例、ターニングポイントをピックアップしてそれらしいエピソードで話すことはできる。しかし、それほど人間は単純ではない。もっと複雑で、数多の要素が複雑に絡んで自己を形成しているのだ。「端的に論理的に」なんて説明できるはずもない。半ば諦め。分かってる、諦める方が悪い。要領よく、ある程度で自己紹介した方が人付き合いはうまくいく。しかし、そういう問題ではない。自分自身の「ルール」と「システム」の問題なのだ。狼だぬきの中にあるシステムが警鐘を鳴らすのだ。


 「社会は自己実現的消費へ向かっている」と、山口周が言った。マズローが雑に提唱したらしい欲求五段階説。その説では自己実現は、ピラミッドの頂上に位置する。本当に、自己実現は頂点なのだろうか。人生の究極の目標達成へと努力する姿ごときが、頂点?違和感が、後ろ髪を引く。

 実は、マズローの欲求五段階説には「六段階目」があるともされる。自己実現の上、「自己超越」。利他的な自己と利己的な自己が統合され、自我を守ることがそもまま社会貢献につながる。在り方のレベルで生きる。とまあ、特徴は色々ある。

 「自己超越」を目的に生きてこそ、結果的に「自己実現」へ至る、とも聞く。自己超越が目的になる時点で、とめどない違和感がある。たぶん、そのブログを書いた人は自己超越していないので、分からないのだろう。想像力と知性には限界があるし、そもそも備えた人は少なすぎる。つまんないな。

 思うに、自己実現と自己超越の間には、中間がある。白と黒の間にグレーが存在するような。中間的欲求。五段階目と六段階目の間に位置する中間ポイント。ここには、別の駅が存在している。

 名前はそうだな、「自己表現」欲求とでもしようか。自己超越的に利他へ奉仕する美しさをまだ完璧に獲得しきれていない。一方、利己的で個人的な夢を掲げ成長へと努力する陳腐な自己実現的フェーズとも異なる。何か別の、あるいは過渡的な中継点。県と県を隔てる山中の国道にぽつんとある、道の駅のようなそれ。

 ぼくが物事の説明をある程度うまくこなせるのは、自身が過渡期にいるからだと考えている。自分自身と世界との境界線をうまく判断できないのだ。物事を説明することで、ぼくと対象の関係性をテキストにすることでしか、自分自身を説明できない悲しき性。何が悲しいか?自分は説明できないのに、海老フライはうまく説明できること、そして海老フライの説明が間接的に自分の説明になるという分かりにくさのどこが悲しくないのか。逆に教えて欲しい。だから、世界の説明能力を上げる他なかった。

 もっと、直接的に、シンプルに生きたかったものだ。まっすぐに単純な言葉で夢を語って、人望を集めたかったものだ。どうせ叶わないから、望んじゃいないけれど。別に、心底なりたいわけでもない。むしろ、できれば複雑でありたいし、分かりにくくありたいのだ。誰にも理解されずとも、ひっそりと。そうでないと、文章は書かない。

 とにもかくにも、自己実現的な風潮は歓迎できない。自己実現が、もしくは自己超越が確固たる価値観や信条に基づくものであるのであれば、社会的風潮に先導された自己実現は、本質的になり得ない。流された、憧れた自己実現は、そこまでだ。もっと、ぼくらの深淵に眠る根本的な価値の解放がいい。解放と実現。そして定着。誰にも邪魔されない場所で忠実に使命に没頭できる生き方。フロー状態。

 自己実現は本当に正義だろうか?僕たちは、自然的な自己へ回帰することはできないのだろうか。個人的な自己表現は、それは自己実現と自己超越の過渡期にある道の駅として、人間の自然への回帰を促すことだろう。その表現として、狼だぬきという自然的な文章を形にするアカウントが生まれたわけだ。少し、思い出した。うん、文章を書こう。世界を書くことでしか、うまく自分を説明できないのだから。

 


 

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