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【フツーの人々(6人目) / 赤ちゃんを抱いた女】

 空には曖昧に厚い雲が広がっていて、雨が降ったり止んだりを繰り返していた。道を行く人たちはみな手に持った傘をさすべきかそのまま少し濡れることを受け入れるか迷っているように見えた。

 その女は、都内ならどの駅前にでもあるようなコーヒーチェーン店1階の窓際の席に座っていた。外から見るぶんにはこれと行って不思議な点はなかった。紺地に白い水玉模様の抱っこ紐をし、くたびれた白いTシャツはその下の肉付きを隠せていなかった。緩めの黒いズボンに雨に濡れた白いスニーカーを履いて、スマホを覗き込んでいた。スニーカーとズボンの合間からやけに派手な水色の靴下が見えた。

 レジで自分のアイスコーヒーを頼み会計を済ませ、その女性がいる後ろを何気なく振り返ると、少しだけギョッとしてしまった。冷やりとしたものが背中を伝ったようにさえ思えた。女性が抱いていたのは、人形の赤ちゃんだったのだ。

 人形の赤ちゃんには、身体のサイズに合っていない服が着せられていた。抱っこ紐の合間から伸びた腕には肘より少し下までしかない生成りのカットソーを着ていた。目はらんらんと輝き、瞳は濃い青と緑が混在していた。まつげはびっしりと長く、しっかりとカールされていた。

 女性が体重を移動させるたびに、人形の赤ちゃんは瞬きをした。ゆらゆらゆらゆら、ゆっくりと。女性はその人形の赤ちゃんに目を合わせて話しかけるでもなく、あやすわけでもなかった。ただスマホを覗き込み、漫画(もしくはコミックエッセイのようなもの)を読んでいた。女性の前のテーブルには氷がだいぶ溶けて上層に浮いた飲みかけのアイスカフェラテと、何かドライフルーツが入ったマフィンらしき残骸がぞんざいに放られていた。

 女性の過去に何か悲しいことがあったのか、幼いころからの愛着ある人形であっただけなのか、正確なことはわからない。今後いっさいその真相を知ることはないだろう。彼女には彼女の人生があり、僕には僕の人生があるからだ。けれど、僕のまぶたには、あの人形の瞬きする様子が焼き付いてしまっている。

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