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「もうじきたべられるぼく」を読む。

じっと肉を見る日


あたたかなタッチの絵が印象的なこの本。

文章はとても短いので、読むのはあっという間。

題名から内容は予想できるとは思うが、一言で感想をいうのが難しい。

興味のある人はこの先を読まずに、まずは本を読んでほしいところ。


以下、結末含む内容に触れる。











「もうじきたべられるぼく」の内容。


食肉用として育てられた子牛が、その運命を受け入れる前、離れ離れになったお母さんに最後に会いに行くことを決意する。

母牛に会うため、電車に乗り、生まれた牧場を訪ね、自分より幼い牛たちと過ごす母親を遠目に見つけるが、母の気持ちを思い声をかけることをやめて帰ることにする。

その直後、牧場沿いの線路を走る電車の窓を見た母牛は、そこに息子の姿を見つける。

その途端、彼女は必死の形相で電車を追いかけるのだ。

2人はこうして短くも心を重ねる最後のお別れをし、子牛は、ふっきれたように、自分を食べる人が、自分のいのちをたいせつにしてくれることを願う。



という話だ。


実は、一読し、一週間程度の間をおいて上記のあらすじを書いたのだが。

その後、再読したところ、自分にはこう見えたのにとちょっと驚いた部分があった。

それは、

その途端、彼女は必死の形相で電車を追いかけるのだ。

の部分である。

再読して絵を見たところ、必死の形相ではなかった
絵だけを見た時にそう受け取ることはないだろう表情を母牛はしている。(そのようなわかりやすい表現をしていない)

でも、わたし、「必死の形相」に疑いをもっていなかったのだ。
なんなら「般若のような」という表現も浮かんだほど。

列車を追う彼女の後姿の絵がある。

わたしはその彼女の正面からの姿を自分で補っていたのだと思う。
わたしにとっては、そういう場面だった…。


話を戻す。

人間に食べられるための生と死が、母と子を引き離す。

その痛み。

子牛が自分の定め(=死)を淡々と受け入れつつも、もし牛ではなかったらと思いめぐらせたり、母親の気持ちを慮るところが、胸を打ちながら同時に、複雑な気持ちにさせる。

母と子のきずなを描くなどとまとめられないのは、そこに、「死んだ牛を食べるわたしの姿」も見えるからだ。


*   *   *   *

そこそこ前の話になるかと思うが、小学校のクラスで豚を世話し、やがて食肉用として出荷するまでの授業(教育)が話題になった。


ということで、ここに書くため、ネット検索してたところ、複数の学校があがってきて驚いた、のだが。

よく調べると、わたしが見たのは、1990年7月から1993年3月の2年半にわたり大阪の小学校で900日間にかけて行った授業の話だとわかった。

その衝撃的な内容に、その後、書籍「豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日」(未読)にも映画(未見)にもなった。



当時大学生だったわたしは、新聞やニュース番組のなかの特集で見た気がするが、小学校ですごいことやるなあと驚いた。



調べて知ったが、新任教師が公立の小学校でやったことも、すごい。
(今ならネットとかSNSですぐに広まって炎上するから途中で断念とか、子供不在で話が動いていきそう…)


豚。
哺乳類だし、大きさもある。
名前を付けて、みんなでお世話をしたら愛情が生まれるのは自然なこと。

飼い始めた当初は「食用」になることを明確にはしなかったようだが、担当学年の卒業で、食肉センターに送るか、下級生に引き継ぐかの多数決が行われ同数だったが、諸事情もあり先生が食肉センターに一票を入れたという。


小学生に判断させるには、ヘビーすぎる内容とも思うが、それぞれが一生懸命考えたことは確かだろう。


どれだけのインパクトを与える経験だったか、小学生の自分で体感してみたかったとも思った。


*   *   *   *

食べることは生きること

とはよく聞くし、自分もそう思う。


おいしいものを食べると幸せだし、家族の健康のため、バランスも意識するのは「食べる」のが、毎日の必須事項だから。


一方、食べられるために、食べ、生きる動物たちがいる。


エシカルヴィーガン(動物愛護からの菜食主義)は無理だけど、そう、せめて、これも命だったと時には意識せねば。


食物連鎖のひとつという範囲を超えたところで、人間は生きているのだから。



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