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No.413 盲点だった「耳に入った虫!」

 もう30年以上前のお話です。真夜中に地球を抱くようにして寝ていた娘が、いきなり火がついたように泣き出しました。「耳が痛い!痛い!」とドタバタしながらギャン泣きです。どうやら虫が耳に闖入したようでした。すわ、一大事!天地がひっくり返ったかのような、そのただならぬ痛がりようは、救急車を呼ぶよりも、すぐに病院に駆けつけようとする気持ちの方に拍車をかけました。

 夜間外来の診察室に現れたのは、若い夜勤の医師でした。狂ったように泣き、頭を振り続ける子どもに麻酔薬を注射したのですが、なかなか効かず、しかも耳鼻咽喉科の専門医でなかったからか、ピンセットで耳の中の虫を引きずり出すどころか、悪戦苦闘しながら押し込むような形になり、手に負えなくなりました。
 「大学病院に行ってください。連絡しておきます」
と、匙を投げられてしまいました。丘の上の大学病院まで車で30~40分走っている間に、漸く麻酔が効いてきたのか、娘は魔法でもかけられたかのように静かになりました。大学病院の耳鼻咽喉科で診てもらい、特別な形の細長いピンセットでつまみ出されたのは、丸く血だるまになった虫でした。見る影もない痛々しい姿になっていました。あの若い医師の怨念を見るようでした。

 その正体は、シルバーな色が印象的な「紙魚(しみ)」でした。紙魚といえば、紙につきものですが、それ以外にも衣類や虫の死骸、埃など様々なものをエサにするそうです。掃除をしっかり行う事の大切さを教えられた大事件でした。

 この我が娘と同じ痛みを味わった江戸時代の男性がいます。江戸時代中期~後期にかけて、南町奉行の根岸鎮衛がまとめた雑話集『耳嚢(袋)』(巻四)の中に出てきます。

 耳へ虫の入りし事
寛政七年卯六月下旬、池田筑州、營中にて語りけるは、夜前甚難儀せし事ありし由。其事をせちに尋ければ、燈のもとに頭を傾け居しに、耳の内へ餘程の虫と覺へ飛入りて、無躰に穴中をかき分つと思ひしが、甚いたみ絶がたく偏身中に成てくるしみける故、親族家童打寄て是を出さんとするに百計なし。兼て長屋へ來れる外科、耳のうちへ虫の入りしを近頃取出せし事を咄しけるを彼家に覺へて、右外科の許へ申遣しける故、五更の此、彼醫師來りて樣子を見、紙よりの先へ何か膏藥をつけて耳の内へ入、痛む所迄屆きし後暫く有りて引出せしに、膏藥とけて右虫に付て出しを見れば、米つき虫と俗に呼る虫也。彼醫師に即效を賞し尋けるに、別段の藥にもあらず、萬能膏の由。一度にて不取出事もあれど、耳中の熱にて膏藥潤ひ、右虫を付て引出す由。尤油藥をさし候へ共虫を殺し候故、痛はさるといへども取出すにかたき由語りけると也。

口語訳…「耳の中に虫が入ってしまったこと」
寛政七年卯年(1795年=寛政七年)六月の下旬の事です。池田筑州殿が御城内で私に語ったことに、「昨夜は、とんだ目に遭いました。」との由です。私も興味本位で、つい、こと細かに尋ねてみたところ、「うとうとと、燭台近くに頭を傾けていたところへ、耳の中へ、よほど大きな虫らしきものが、飛び入って、それが又、無理に、奥へ奥へと、掻き分け入ることだと思ったのですが、全身に痛みが走り、如何ともし難いようになってしまいました。親族の者やら従僕やらが、寄ってたかって、ああだこうだと言って、これを取り出そうとしたのですが、良策がありません。以前、私の屋敷の知りあいのところに参っていた外科医が、『耳の中へ虫の入ったのを取り出だした』と話していたのを家士が思い出し、先の外科医の元へと急患の使いを出したところ、午前四時頃になって医者が来て診察をはじめ、紙縒(こより)の先に何か膏薬をつけ、耳の内へ差し入れ、痛いと思っていた辺りまで、そのこよりが、届いたあと、暫くしてから紙縒りを引き出すと、こよりの先に固まってくっ付いていた膏薬はすっかり溶けて、かの虫がべったりと張りついたまま出て来た。見ると、コメツキ虫と俗に呼ばれる、あの虫でした。かの医師の秘薬の即効を称賛して、『素晴らしいお薬ですね。何ですか?』と尋ねたら、『これといった医薬ではありません。万能膏です。』とのこと。『一度では取り出だせぬこともありますが、耳の内部の体温によって膏薬がゆっくりと溶け、それに虫が付いたら引き出す』のだそうです。『尤も、耳に油薬を直接させば、虫は溺れて死にますが、この方法では、虫が暴れることで痛みを除去することには有効ですが、耳中から虫の死骸を摘出することは難しいのです。』」と語ったということです。

 耳は、盲点です。虫は、「決して後ろに退かない」ことから、例えば、伊達成実(しげざね)のように、戦国時代の武将の兜の前立てにも用いられています。反転できるほど娘の耳の穴も大きくなかったでしょうが、我が家の「紙魚」も「前進あるのみ」と突き進んだのでしょうか?娘にとっても、紙魚にとっても悲劇的な一夜でした。掃除、しましょう!

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