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書かれたことが全てか

こんばんは。
今日も帰り道に書いています。

前回に引き続き国語についての思考を整理したいと思います。

国語の読解問題において、「答えは文章に書いてある」や「記述問題は本文の言葉をつなぎ合わせる」のような言説をよく見かけます。
...これってどうなんでしょう?
はっきり言って私は嫌いです。

「言葉にする」とは

何かを言葉にするという行為は、完全なものではなく、あることを言葉にすることで、そこからこぼれ落ちることが必ずあり、それも表現の一部だと思うのです。その「言語化されえなかったもの」を掬い取り、汲み取ることもまた、読むという行為の一部なのではないでしょうか。
もちろん、書かれたことを読み取ることが前提です。しかし、それはすべてではない。書き手は、言葉の不完全さを理解しながらもそこに信頼を置いて、表現する。受け手は、言葉に耳を傾ける。言葉は記号であるが、それ以上に血の通ったものだと思うのです。

「文章の言葉を使え」の弊害

記述の問題に限らず、言葉を用いて表現するときは、「どの言葉を使うか」よりも「何を書くか」が先にあるはずです。「文章の言葉を使う」という制限は、一見すると解答者が答えやすくするように思われます。しかし、当然ながら、設問に対して適切に解答していれば、使う言葉が文章中のものでなくてもよいのです。むしろ、自分で適切な語彙や言い回しを選択できる方がいいわけで、「文章中の言葉を使え」というアドバイスはその思考の機会を奪いかねません。
国語指導者には「文章中の言葉を使え」や「逆接の後に線を引け」のように、いたずらに生徒の思考を制限する指導をする人が、実はけっこういます。なかなか素人にはそれが悪いとわからないのが厄介です。しかも、そういう人に限って知名度が高かったりするので、余計にタチが悪い...

と、まあ、今回は、私が気になる、国語指導でよくある疑わしい言説と、それについての考えをご紹介しました。

お読みいただきありがとうございました。
よければ他の記事もぜひご覧ください。


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