母が逝きました            12年の介護で考えたことわかったこと

享年の桜と雪柳

2024年3月29日、母は唐突に逝ってしまいました。
母を東京に連れてきてちょうど丸12年、たびたびの肺炎や高血糖昏睡などの危機がありましたが、そのつど医療の予想を裏切って生還し、回復を果たしてきました。今回も、長い入院の後でしたが、1月の退院から順調に回復している途上に思えました。割と慣れっこになっていた発熱でしたが、酸素飽和度の低下もあるので、心配だから救急搬送してちょっと入院、くらいの気持ちでした。ところがその車内で急速にバイタルが落ち、病院に着いた時にはもう心肺停止ということでした。重篤になっても回復、という何度もの成功体験で、簡単には死なない人だと思いこみ、緊張感なくぼ~っとお別れしてしまいました。
 
母は1936年(昭和11年)長崎県佐世保市生まれ。すでに上京して職を得ていた兄を頼って高校卒業後に東京へ。その後、静岡県熱海市に移って仕事をしているときに父孝と出会い結婚。伊東市の孝の生家に暮らしたのち、◎◎町に家を建てて転居。子育てと仕事とともに社会活動にかかわり続け、父を見送ったあとには市会議員となりました。学校施設の改善など、子どもたちの施策に力を入れていましたが、3期目の任期満了の直前、病気を発症しました。
 
2010年、73歳頃に「進行性格上性麻痺」という「特定疾患」に指定される進行性の脳の病気と診断。通常は発病から4~5年で亡くなるとされており、あと数年の介護になるのだと思い、急遽専門病院のそばに住まいを移し、東京に連れてきました。
ところが、病気は医学書通りに進行、悪化していくわけではありませんでした。首が後ろに反ってしまうとか、震えがひどくなるとか、特徴的な症状が出たかと思えば、しばらくすると改善する。すぐに歩けなくなる、身体が拘縮する、口からは食べられなくなる、という医師の予言でしたが、発病から十数年を経た昨年夏まで、手引き歩行が可能でしたし、車いすにつかまって100m道路を歩いたり、階段上りや公園の鉄棒でスクワットも頑張っていました。病気の進行予測に遠慮して生活を抑制することなく、多少挑戦的に日常生活を維持する、というのが最善のリハビリであり、進行に歯止めをかけていたのだと思います。
 
医療の予言を妄信しない者は救われる、というのが経験的教訓です。
病は誰にも同じように出現するわけではなく、その人ごとに、向き合いかた、闘いかた、付き合いかたがあります。体質・体力や、意思や、性格や、生活条件や、サポート体制・・・・様々な要因によって、病の呪いは解けたりもする。病気は困りごとではあるけれど、できることはひるまずにやる。本人が意欲を持てるなら、できることを増やす努力も早々にあきらめない。ことにこのような徐々に進む病気の場合、できるだけ楽しく元気に生きる時間を手放さずに引き延ばしていくことは、それなりに可能だというのが、母との生活で学び確信したことです。
 
通勤するかのように週に5日もデイサービスに通い、張り切ってリハビリもやっていました。7年前に医療過誤による高血糖昏睡で搬送された際、医師の指示で胃ろうを造設しましたが、すぐに食べられるようになって、結局、最後の最後まで(最後はペースト食にはなりましたが)、口から食べていました。
何度も重篤な状態から回復しましたが、口から食べる、という意欲のたまものだったのではと思います。とてもよく食べる人でした。牛肉が大好き、とんかつやから揚げや餃子やお寿司、体育会系男子かよ、というようなものが好きでした。
 
つい2023年の夏までは、そのように元気にしていたのですが、8月初旬にコロナに感染、救急搬送となり、併発した誤嚥性肺炎が深刻でしたが、なんとか回復。その後、またも医師のミスによる高血糖昏睡(なぜか医師は高齢者を高血糖に維持しようとするので)となりましたが、また生還。少しだけリハビリをしてから家に、と思い老健に移ったものの、すぐに胆管炎を発症してまた搬送・・・・と、半年間に3度の生命の危機に見舞われたのですが、どれも乗り越えて、今年1月、やっと自宅に戻りました。
 
ほぼ寝たきりで反応も悪く、言葉も出ない、頻回の吸引、胃ろうからの経管栄養、自力の排泄も無理、という状態での退院でした。ところが、訪問看護師チーム、理学療法のリハビリ、言語療法士、嚥下リハビリ、とほぼ毎日誰かが来てくれるという看護生活を始めると、みるみる回復していったのです。
言葉や笑顔が出るようになってきて、経管栄養で1日わずか900カロリーという退院処方でしたが、胃ろうから濃厚な鶏のスープを入れ、栄養強化をはかりました。当初、唾液も呑み込めず、さすがに今回は口から食べるのは断念かな、とあきらめの気分だったのですが、嚥下リハビリの医師は、口腔内の状態は良好、舌の動き、喉の筋肉は維持されているので、「これであきらめるのはもったいないな~」と言うのです。
そこでプリンを食べさせてみると、むせることもなく、するする呑み込んだのです。だったらムース食でも、となって口から食事ができるようになると、体重は35kgに落ちていたのが2か月で5キロ増え、ある日突然「トイレ!」と言ってトイレで排泄できるようになりました。だったら立てるかも!となり、立位の練習もしているところでした。看護師さんやケアマネさんとは、もしかしたらもうじきデイサービスに復帰できるかも? とすら話していたのです。
 
亡くなる前日は、言語療法の先生と歌詞カードをすらすら読んで歌を歌い、午後は訪問入浴で「いいお湯かげん!」と言って大好きなお風呂を楽しみました。
ところがその夜から発熱。呼吸と脈が徐々に落ちていき、翌日搬送となったのでした。
直接的な死因は不明ですが、あまり苦しむことなく、心臓の機能が徐々に落ちて、ゆるやかに最期を迎えたという感じでした。日々着々と日常を取り戻していくようで、かかわってくれる皆を喜ばせていたところでしたから、唐突な死は驚きで、悔しく残念な思いはありますが・・・・しかし、穏やかな最期であったことは、安堵しました。
 
5年ほど前に乳がんがわかり、当初は効いた薬が効かなくなって、どんどん腫瘍が成長、ピンポン玉くらいになっていました。わずかですが、骨転移していることもわかっていました。腫瘍が皮膚を破って出てくるかもしれない、骨転移が進行してひどい痛みになるかもしれない・・・・。何度も危機を乗り越えてきた母ですが、行きつくところには癌の苦痛が待ち受けているかもしれないことは、胸をふさいでいました。しかし、はからずも、そうした苦しみに見舞われることなく、穏やかに逝けたのではありました。
 
いま、これを書いている傍らで、母は、生きているときよりも美しいような顔で眠っています。東京の火葬場は異様な混みようで、1週間、10日の待機は普通なのだそうです。そんなに先!? と驚きましたが、2か月余りの濃密な看護生活を走り抜けたあとのこの長い待ち時間は、悪くなかったかな、と思います。まだ家にいるの? ということで、多くの方が顔を見に来てくれ、たくさん届いたお花に埋もれています。
唐突な死でしたが、一日過ぎるごとに、死んだということが胸に落ちていきました。母にかかわってくれた方がたが日々訪ねてくれてゆっくり話ができ、意外にも楽しい時間を過ごしました。村人が死んだら幾晩も宴を続けて死者を送る、という昔の風習はなるほどです。この世からゆっくりゆっくり送り出すのが、人間が本来していたことなんだろうと思ったりします。
 
母にかかわってくださったみなさん、昔のリハビリ担当や看護師さんまで、忙しい時間をやりくりして顔を見に来て、声をかけ、ねぎらい、別れを惜しんでくれました。
デイサービスのスタッフも、すでに退職した方までがかわるがわる来てくれて、涙を流して、デイでの母の思い出やエピソードを語ってくれました。周囲の利用者さんに声をかけたり、食器拭きを手伝ったり、体操を率先して頑張ったり、なんだかいろいろ活躍していたようなのです。
父との出会いや、昔は保育所をつくる活動をしたんだとか、私の知らない昔語りもずいぶんしていたようです。
 
私は、自分の仕事の都合でデイサービスに預けている、という感覚でしたが、母は彼女の場所で彼女らしく活躍し、生き生きと楽しんでいました。みなさんに大事にされ、どれだけ果報者だったかと思います。
母の最期に、あらためて、いかに素晴らしい介護体勢に支えられていたかと実感します。ラストスパートの介護をやりがいをもってやり遂げられたのですから、感謝しかありません。そして母は、私や皆の期待に応えて、とにかく頑張りました。最期まで、朗らかなコミュニケーションができました。私が欲が深いので、頑張らせすぎたかなと思わないでもありません。ほんとうにご苦労様でした、と思います。
 
しかしかたや・・・・入院するたびに、医師には常につらい思いをさせられたことも付言しておきたいと思います。
「こういう進行性の病気なんだから寝たきり状態は当然」という「専門医」ばかりで、頑張って回復させよう、能力を維持しよう、生活を取り戻そう、という介護者の思いに共鳴してくれる医師には出会えませんでした。入院すれば必ず、「寝たきり状態で保持」の処遇になります。「誤嚥性肺炎の危険があるんだから、あなたが口から食べさせるのは虐待だ」と言われたこともあります。「高齢でこのように重篤になって無理に生きながらえさせるのは人間の尊厳にもとる」「生存を優先するのですね?」と言われたのも唖然でした。「ここにいるこの人の命の尊厳は、あなたが決めることじゃない」と思いました。「高齢、重篤な人が亡くなっても仕方ない」ということが、前提的な共通認識なのだと思います。
施設入所などで必ず問われる項目で「延命措置をするか」というのがあります。これに簡単に「救命措置はけっこうです」とマルをつけるな、というのが私の考えです。「その時」の状況で「その時」主体的に判断すればいい。先んじて「救わなくていいです」などと伝える必要がなぜあるのだろうかと思います。「その時」に、状況に応じて私たち自身が後悔のない判断をすべきです。
患者の越し方も暮らしも知らず、病名や現時点の状態や数値だけで患者の未来や生活を断定する医療は、介護に立ちふさがる壁であり、最大の重圧でした。
 
でも、そうした医療を離れ、家にさえ戻れば、在宅医療・介護にかかわってくれるすべての人たちは、回復の可能性をできる限り追及し、生活を取り戻すためにどうできるかをともに考え、回復を喜びあうことができました。私や母の、よりよく生きたい、より楽しく暮らしたい、能力を維持したい、という思いと、齟齬や矛盾を感じたことはまったくありませんでした。
 
母とは春夏秋冬、車いすを押して、花や新緑や紅葉を楽しみ、美味しいものを食べに行きました。友人との山梨県の清里や、三重県鳥羽への旅行、郷里佐世保で高校時代の無二の親友と島原半島をめぐり、義理のお姉さんを訪ねることができました。長野県の諏訪湖や白樺湖、富士山の見える河口湖や懐かしい伊豆にも遊びました。毎年、国立や武蔵国分寺公園の桜は必ず見に行きました。
もう少し回復したら◎◎町に出かけ、久しぶりにお友達と再会できるね、今年もあと少しで桜だね、と言っていたのですが、間に合いませんでした。
来月5月には、88歳になるはずでした。盛大に米寿を祝いたいなと思っていたのですが、それも果たせませんでした。
その二つはとても残念なのですが。
◎◎町から東京に連れてきたとき、母は「なぜ東京に来なければならないの」と不満でした。私も、彼女の人生の大半のステージだった◎◎町で最期を迎えたいだろうなと、ずっと忸怩たるものを引きずっていました。
でもいま、母の訪問看護チームやデイの皆さん、訪問診療の先生や看護師さんと別れを惜しみながら、こうした方がたとともに母を送ることができて、東京に連れてきて、よかったなと、心からそう思っています。
この介護を、親孝行、と言われるのには違和感があります。そこに山があるから登ったようなものなので。介護者の「自己犠牲」をいかに回避できるかも、ずっと考えてきたことです。ひとりの人間が、人生で誰かのために役にたつことは、きっといくらもありません。子育てもしかり、そこにある命のために自分の時間を割譲する経験は、人生にありうべき経験だろうと思っています。ともあれ、親かどうかはともかく、面倒みがいのある、素直で可愛い人でした。
 
在宅医療・看護・介護でかかわってくださった皆さんはもとより、遠くでいつも気にかけてお心遣いをいただいた方がた、かつて母の人生でとても親しく力になっていただいた方がた、母と一緒に居酒屋でビールで乾杯したり、選択に悩んだ時に相談にのってくれたり、家に来ては母の足湯をしてくれたりした私の友人たち、みなさんのご厚情に、心より感謝をいたします。
ありがとうございました。
 
最期に。現在進行し続けている、イスラエルのガザ攻撃、パレスチナ人の虐殺を誰も止められないこの世界にあって、このように命をいとおしみ、送ることができることがいかに特権的なのかということを胸に刻みます。あるべき命の尊厳を世界に取り戻すために、何ができるのかと問いながら。
2024.04.07

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