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本を読む時の自分フィルター

このお正月休みは、今のところ、読みたい本を読みたいだけ読んでいます。そこから強く感じたことは書き手のバイアスを客観視して中身を解釈する必要があると言うこと。私の備忘録的にそこに至った経緯を書いておきます。

まずKindle Unlimitedだったので、この有名らしい悟り系の本を読んでみて感じたこと。著者が何度となく聖書の引用をしてくるのが気になりすぎた(私は19年カトリックの教育を受けているので聖書には抵抗がないのですがそれでも全部の章に聖書の引用がついています)。聖書を正当化する為ではないのは分かったけれど、聖書に馴染みのない人には描いてある半分しか伝わらない気がするし、悟り系の本に聖書が多用されることが多いのに疑問を持った。

そしてこれだけ引用されている聖書(キリスト教)万歳、なのでいいのか!?と思い、キリスト教に反論している有名なこの本を読見返してみることに。

この本で述べられているキリスト教についてのくだりが事実だとするならば(&私も思っていた福音の矛盾がこっちの方が納得感があると思った)、キリスト教がどれだけ今の世の中の意識に影響を与えているか再度気づいた。そしてこの後、高校の世界史の資料集をひっぱり出して、紀元後からどんどん広まった、現時点世界の8割の信仰を締めている宗教の概要を調べたけど、これらの宗教によって、女性の地位が明確に落ち、女性は従属するものになり、そして無駄に処女性の尊さが表に立つようになったのだと実感した。

ただ、この本の中で、私が1つ違和感を感じた部分がある。

ウォルト・ディズニーも作品に秘密のメッセージや象徴をまぎれこませるのを好んだ。 <略> ディズニーが隠したメッセージのほとんどは、宗教や、異教の神話や、抑圧された女神の物語に関するものだ。<略> リトル・マーメイド〉は、偶然とは思えないほど、女神に関連した霊的な象徴をみごとなまでに織り交ぜている。

え、ウォルト時代のディズニーの映画って今のフェミニズムの視点からしたら完全に間違った刷り込みを与えるエンターテイメントではなかったっけ!?と。
ダ・ヴィンチ・コードの中のマリアは逃げて逃げて自分で自分の子供を守った強い女性だと語られ、レオナルド・ダ・ヴィンチはその神聖さを後世に残しているのに、あんな守られるだけのプリンセスを描いたのがダ・ヴィンチと同じ意図!? 何だか私は府に落ちなかった。
著者のダン・ブラウンはアメリカ人作家であり、アメリカの人は自国の文化の威厳としてウォルト・ディズニーを敬愛している節がある(あとはハリウッド)のは感じているので、これは本当なのだろうかとこのディズニーの描いたプリンセスについての本を次に読んでみることにした。(ちなみに私はディズニーもアメリカと言う国もアメリカの人も大好きです。ただ、そう言う傾向があるよねと感じて今回違和感を持っただけ。)

これを読んでいると、そもそもウォルトがシンデレラを作成したのは第二次世界大戦前の時期で国民の士気を上げる為だったとか書かれているし、やはりウォルトの描いたプリンセスが、どう見ても、他の宗教と同じく、女性は従属するもの、処女の神聖性を描いたものではないかという見方の方が強くできる気がした。個人的には、上記で絶賛されているリトル・マーメードなんて自分の1番の長所と引き換えに、人となりもよくわからない王子との恋愛という賭けに出てしまう悲しい話であり、それをエンターテイメントにして刷り込みをしたのはディズニーで女神の象徴という意図は本当に薄いのでは、と感じた。


こうやって元旦から読んだ本の中の違和感を検証していくと、書き手の概念・バイアスを考慮して自分の中でその本から大切だった部分を抜き出して学びの部分にしなきゃいけないんだなということを強く感じました。
特にジェンダーや、宗教、哲学、心理学といった私の今興味のある分野は著者の思考や意識がそのまま反映されているものも多く、自分の中で取捨選択するフィルターをきちんと働かせて中身を咀嚼しなければいけないなと思います。

そして知的欲求はもちろん大切なのですが、最終のあり方としては、冒頭の悟りの本に返るのですが、

思考や想念は幻想に過ぎず、知識もまた、単なる幻想に過ぎない。<略> 観念は観念であり、事実そのものではない。 どのような意味づけでも、あなたがその出来事に価値判断、分別、決定すれば、それは事実そのものを観たのではなく、あなたがあなたの見たいように見たのだ、ということを知らなければならない。<略> 完全に実在だけを、〈在る〉だけを、真実だけを観続けることだ。

知的欲求により学んで得たことは得たこととして、私は、”起きている真実”は何のフィルターにも通さず今ここ、の時点をみることなのかもしれないと思いました。


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