転生したらもったいないになった件

やりたいリストをつくったとしても、意外と言うべきか、当然と言うべきか、は各々の判断に任せるとして、大部分はできずに終わることが多い。

謎だ。ぼくにとっては、金田一少年の事件簿よりも事件簿である。

もしかすると、「やりたいこと」にもグラデーションがあって、「心の底から何が何でもやりたいっす!」という熱量高いものもあれば、「まぁ、やれたら、やりたい、よね」というやや冷ややかなものもあるのに、同じ一つの「やりたいこと」として括っちゃってるからかもれない。

だとすれば、かなり心の強さが求められる気がするし、それだけでどうにもならないものにぶち当たったとき、現実的に「できない」自分と面と向かっていかなきゃいけないので、まあまあきつい。へこむときは、ひたすらへこむしねぇ。

そういう反省を繰り返しながら覚えたのは、「やりたいこと」を「必要なこと」に置き換えてみること。これまでの物事の捉え方を殺したうえでの、ちょっとした、ことばの転生である。

その”やりたかったこと”は、べつにそれ自体ができればオールOKってわけでもなく、その行為のもっと先に達成させたい目的(目標)がある。

だから、「○○をするために必要なこと」と捉えるし、なるべくは必要に迫られるような、自分が詰まれる状況づくりに努めてみる。

ただ「必要なこと」に置き換えてたとしてもどうにもこうにも動かないこともある。

たとえば、どんなかたちでもいいから「定期的に文章を書き綴る」というのが「やりたいこと→必要なこと」だったとして、それがなかなかできないときどうするか?

考え方としてしっくりきたのは、「もったいないこと」として捉え方を変えることである。

定期的に文章を書き続けると、それなりに慣れが生じるし、多少なりとも上達していく。などのように「それをやることでどうなるか」というプラス面を考える以上に、その反対の「それをやらないとどうなるか」というマイナス面を考えるようにする。

筋トレと同じで、しばらくやらなくなると筋力が落ちるし、ひさしぶりにやったところで、身体をうまく使うべく勘を取り戻すリハビリの手間があったりする。

継続的にやらないと、今まで積み上げたものが一旦ゼロに戻る、場合によってはマイナスになる、と思うと途中でやめるのは「もったいねぇな、おい」と感じてしまう。

人間は欲張りでメリットとかデメリットを深層心理で考えながら行動する存在だろうから、その点について順序立てて考えてみるようにする。「やらないなんてもったいない!」という考え方は、どちらかといえば、ぼくみたいなビビりで臆病者には合ってると思う。

ということで最近は、日記を書かないのはもったいない、本を読まないのはもったいない、という呪文を頭の中で繰り返すようにしている。といっても、「○○しないなんて人生の半分損してる」なんて野暮ったいことを言うつもりはないですけど。

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