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特別な他人の写真

たらればの話だけどね、もしも子どもが生まれたとして、ぼくはわが子の写真をSNSにアップすることはしないようにしようと思っている。

なぜかというと、ぼくが写真をSNSに勝手にアップすることは、子どもだからといって本人の意思を無視してるような気がするからだ。ある程度、自分で判断できる年頃になるまで、その肖像権は侵さずにおいておきたい。

もしも自分が二十歳を超えるくらいのときに、自分に身に覚えのない写真が、なにかしらのリソースを辿ることで見つけられると知ったら、ぼくであればなんかイヤだなー恥ずかしいなーと思うだけのこと。

そういう「自分だったら!」の感情がもとになってるので、自分の子どもがそうならなければいいなという思いでしかない。

それと、考えすぎかもしれないけど、子ども(と)の写真をのせることで、まわりに対する自分のイメージアップを図っているようないやしさをほんのり感じてしまうからというのもある。

まぁ正直なところ自分でもそれはへんに固執した考えなんだろうなとも思うし、これは本当の話、まわりの人に対しての非難をしたいわけでもないし(それぞれが好きにすればいいことだし)、議論をしたい気持ちだってこれっぽちもない。

とにかく、子どものことは子ども本人が決めてくれよ、ということだ。

講談師の神田松之丞がラジオ(2018.09.16)で、「生まれた子どもの性別をまわりに伝えないでくれ」と奥さんに言われたという話に近くて、男か女を決めるのも本人の意思だし、無防備に撮られちまった写真をどう扱うかも本人が決めればいい。

子どもだからと勝手には侵さないようにする。それは夫婦とて、よくよく考えてみれば”他人”なわけで(だけどいろいろあるから”特別な他人”ではある)、同じように子どもだって尊重すべき特別な他人だと思うから(特に、男のぼくが腹を痛めて生めるわけでわけでもないのでなお一層のこと)。

実際問題、自分が気を付けたとしても、まわりの人が何かにつけて子どもを撮ることなんてざらにあるだろうし、子どもが生まれたら心境もいくらか変わるだろうし、そのときなってから言えよ!とツッコミどころありまくりなのは認めるけど、今のところはそう考えてますよ、という書き留めでした。

ぼくがこれを削除しないかぎりは、いつか子どもができて、その子が大きくなったときに確かめられる証拠になりうるわけだから、まあヘタなことは言えないよなぁ......。あまり父をいじらないでおくれ。

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