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主語は小さく、暮らしの延長線上で。

地域で何かをはじめるときのきっかけは、”課題解決”という大それたものでなく、案外、もっと身近にあるもの、自分ごととして感じられることにあったりする。

ざっくりいえば、暮らしの延長線上で「ない」をどう取り扱っていくか。

今いる場所には・・・「本屋がない」「ちょうどいい中華屋さんがない」「サブカルについて語れる場所が少ない」「若者が集まれる飲み屋がない」「仕事を手伝ってくれる人がいない」などなど。

挙げたら切りがないし、都会であればあたりまえにあるものがなかったりするのだ(その世界線をどれだけの日本人が体験知として持ってるのだろうか)。ちなみに、先ほど挙げた例はすべて大山町において、ぼくがまさに感じてることである。

この「ない」をおもしろがれるかどうか。価値観は十人十色であるとしつつも、自分の暮らしに必要なもの/あると潤うベターなものが「ない」のあれば、「まあ自分たちでつくってみるか」とつくりはじめ、それを小商いにしてる人たちは、大山をはじめ、鳥取には多いような気がしている。そういう空気感が好きだからぼくは今ここで暮らしているのだとも思う。

ぼく個人としては、うえの「中華屋さん」以外は、だいぶスローではあるが今つくろうとしてる最中だし、中華屋だってだれかやりたい人いないかなぁと探しつつ、もしそういう人がいたら紹介できる空き家探しを進めていたりもする。どんどん開拓してゆく。

「地域が」「まちが」「みんなが」と主語は大きくし物事を考えていくと、そこに関わる「わたし/ぼく」の気持ちがないがしろにされてしまうことは多い。そんな状態ではじめる(だれかが義務や犠牲になり我慢する)”地域のこと”は本当にたのしいだろうか?

”適切な自己中心性”のもと、自分の「やってみたい」「困った」からスタートしていく。それを一人ごとから二人ごとへ…そして地域/みんなごとヘと少しずつ範囲を広げ、結果いわゆる”まちづくり”につなげていければいい。自分を殺しちゃいけない。

「なわのわ」の運営はそういった考え方にもとづいて、5年前からはじまったことだ。ゆっくりじわじわ歩兵のように事を動かしていく。いきなりドラスティックに大きなものを動かそうとするハレーションが起きるだけ。

ちなみに、「主語は小さく、暮らしの延長線上で」にさらに「空き家(場づくり)」や「情報発信」を掛け合わせたようなトークイベントを11月4日(金)にやるんで、ぜひいらしてくださいませ。

なんだかんだでがっつりPRになってしまってるのだけど笑、この今ところどころで関わっている企画もすべて、暮らしの延長線上にある、もっといえば、近所付き合いの領域がちょっと広くなっただけのもの、という認識でございます。

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