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堕を許せる、ビュッフェなる生活

「100%丁寧な暮らしじゃなくいい。すべて丁寧にしようとすると窮屈だから。出汁をとって土鍋で米を炊くような日もいいけど、さすがにそれが毎日だと大変よね。パッと変えるハンバーガーだって食べたっていいじゃん。そういう丁寧も雑も組み合わせた、いろんなものを同時に食べられる″幕の内弁当”みたいな暮らしがいいよね」

…みたいな話を、作家のだれかがどこかのエッセイで書いていた。だいぶ、うろ覚えだ。内容をつぶさには記憶してはいないが、その文章を読んだときにビリビリと電気が走った記憶だけは残ってる。

そういう言葉が脳みそにこびりついてて、インスパイアされ、ときどき思うのは、人生はビュッフェスタイルのほうが断然いいってこと。いや、いいとかわるいとかじゃなくて、本来そうなっているはずのだ。

きれいなものと汚いもの、どちらかだけでなく、どちらもある。それが人間の生々しさ。たとえ、人に見せたくないものがあったとしても。「あれかこれか」と一つに絞るでなく、「あれもこれも」と自分の状況や好奇心、それらの組み合わせによる突き進めたらいい未来に合わせて自然と選んでいるはず。

時折、ホテルに泊まり、朝食をとるときがある。ホテルってなぜか、ビュッフェが多い。米派かパン派かの二大派閥に合わせたスタートから、それらに合わせるメニューがずらーっと並んでいる。ぼくは阿呆で貧乏性で、「ビュッフェなんだから」と取れるだけ食べられるだけ気になるものをついお皿に乗せてしまう。食べること(食べきること)が主でありつつも、選ぶたのしさがあるのがビュッフェである。

「いっぱい選択肢がありすぎるとしんどいです。ごっちゃんです」

そんな声があるのもわかる。けど、複数ある中から一つを選ぶことをたのしむのが、そもそも人生をのりこなす姿勢なんじゃなかろうか。生きてる間は、全部が実験なのだろうし。仮説と検証を繰り返す、小さな遊びでもある。

一つに絞って、選ぶには、まずは自分という人間に興味を持つことから。世間とか社会とかの大きな主語の声はいったん聞かないように。耳を塞いじゃう。自分の体と心の声に耳を澄まして、その言葉を無視することなく、否定するでもなく、無理に肯定するでもなく、そのまま受け取って、自分という人間ってこんなもんかと理解していく。すると、選ぶときの基準らしきものが見えてくる。ぶれない片足の基準軸があれば、もう片足は「あれもこれも」と欲に合わせてはちゃめちゃに動かしていける。

完璧じゃなくていいんだぞ、惰性もいいんだぞ、欲張ってもいいんだぞ、いうてもどれも自分なんだぞ、と自分がくりだす言葉と態度をほどよく許せる自分でありたい。こうじゃなきゃと押し込めるのだけは避けたいわけですよ。

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