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聞くのって疲れるのよ。

聞く-考える-話す。その繰り返しはシンプルに疲れる。それも想像以上にエネルギーを持っていかれるみたいだ。

今日はふたつの打ち合わせがあった。一つは今住んでいる地域の、もう一つは地元沖縄の、場をどうやってつくっていくか、という話で、地域は違うのでわりと共通点もあって、気づきも多い時間だった。

使いやすいプラットホーム(組織/場)をどうやってつくるのか。どんな人をどういうきっかけでどのくらいのペースでどの順番で巻き込んで混ぜ合わせていくのか。活動拠点にとどまらず、外の地域とどうつながり、人の行き来を生めるのか。

もともと考えるのが好きな性分なので、お題があり、考えはじめると、どんどん楽しくなってくる。わりとおしゃべりでもあるせいか、思いついたことはあまり詰まることなく言葉にもできる。

そう考えると、なんで疲れるのか、エネルギーをごっそり持ってかれるのか、ということだけど、自分の場合、「考える」でも「話す」でもなく、「聞く」ことにとりわけ神経を使ってるからなんだと気づく。

何が問題(と感じてて)どんな解決方法を求めているのか。今はどんな選択肢を持っているのか、そもそも選択肢はあるのかないのか。情報は整理できてるのか散らかってるのか。その言葉の定義ってたがいに共有できるのか、微差はあるのか。

相手の頭のなかをのぞいてからじゃないと、正しくアイデアを考えることも、必要情報を引き出すことも、いい提案もできない。と思うので、とにかく聞くことに集中するようにしてるんだろうな。

言葉を選ばずにいえば、こっちのほうが効率的だし、楽だからというのもある。的が定まらないままマシンガンでむやみやたらに何発も撃ちまくるよりも、的を絞って絞ってショットガン一発で決めれたほうが弾数も減るし手間もかからない。

聞くことをおろそかにしてると、後々大変なことになる。だったら先に的を押さえてから、ちゃっちゃかやれたほうがきっといい。

ちょっと前に「だいたいの問題はコミュニケーションでしかない」と書いたけど、この「聞く」ことがうまくいってないから、表面上の言葉だけで物事が進んでいき、ある程度かたちになってきたときに、「なんか違う!」という驚きや怒りに変わる。

聞くことをおそろかにして、シカトされた違和感は雪だるま式に転がっていき、目に見える大きさになってるときには、時すでに遅し...なんてこともよくある話じゃないか。

「会議やってるよ」という事実じゃなくて、「どういうかたちで会議を進められているのか」というHOWを大切にしながら、もっと丁寧に進めていかなきゃな。

と思えたし、今日の打ち合わせについては、あぁ疲れたなぁ、という感覚があるので、ちゃんと聞けてたなんじゃないのおれ、と自分をひたすらに褒めたい。

おしゃべりな人間は、油断すると嫌われるから、聞くことを忘れないようにしなくちゃいけもんなぁ。それと、一日に二つ入れると疲れるから、今度からは一つにするようにスケジュール管理できる人間になりたい。ふぅ。

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