世界に鈍感になる。
いつだったっけか。
喫茶店のコンセントからだらだらと充電コードをのばし、スマホへとつなげて、バッテリーに雷印が入るのを確認できたとき、"世界"につながっている気がした。
東京の片隅にある喫茶店のテーブルから、一生に一度行けるか行けない場所の情報が画面から流れ込んでくる。なんか偉い人のイベントレポートでの台詞の引用がタイムラインに浮かんでくる。この充電器を電源に挿し続けられるかぎりは、世界とつながっていられる。
だからこそ余計に、電源確保できない不安は大きい。カフェ難民にはなりたくないんだよなぁ。
ふとそんなことを思ったのだ。と同時に、こんなことも思った。
この充電器があるかぎりは、強制的に世界と繋げられている。自ら繋がっているようで、見えないベルトコンベアがそこまで運ばれてるだけなんじゃないか。その瞬間、充電ケーブルが鎖にように見えてきた。便利な時代になった、と喜んでいたボクはいつのまにか鎖に繋がれていた。
虚しい。
こういう危機感を持つようになったのも、その頃からだったような。
移り変わっていく世界と、色とりどりの人と、そして、雪崩れのように矮小な人を飲み込まんとする大量の情報と、ボクらは繋がれている。SNSなんてのは、あえて便利さを度外視していえば、負担でしかない。もちろん、それは自分の弱さの露呈でもあるので、あまり声を大にして言えることはないけど...。
昭和の最後に生まれ、平成を過ごし、そして令和がやってきた。いつの間にかもう31歳である。その現在、つよく思うことは、「世の中への興味をなくそう」ということ。語弊のある表現かもしれないが、つまり、繋がっているようでまるで繋がっていない世界と的確な距離をとりたいのだ。
そうでもしないと、”あっち側”に引っ張られてしまう。あまりにも日常に溶け込んでいるスマホには、超絶的意識がないと太刀打ちできない。
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