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埋まる寂しさ、埋まらない悲しみ

「ねえ、寂しさと悲しみの違いって何だと思う?」

最近6年間付き合った彼氏と別れたと言う同期が、梅酒の水割りを飲みながらあっけらかんと聞いてきた。

彼女曰く、
「今までは私がたとえば今日みたいに飲み会に来てたとして、そんな時に彼氏はふと『いま彼女は何してるかな、飲み会楽しんでるかな、知らない男に手出されてないかな』とか考えてもらえてたんだと思う。
でも彼氏がいない今は、ふと自分のことを思い出して『今何してるかな』と考えてくれる人が家族以外にいないのが悲しい」

とのことだった。


寂しさと悲しみは少し似ているし、難しい質問だなと思った。彼女も難しい質問だと分かっているようで、困ったような笑顔で話していた。


私は、テーブルに少しずつ残っている蟹チャーハンと、白子の天ぷらと、きゅうりの和物を見ながら、考えを少しずつ言葉に紡ぎ出してみた。


「たとえばだけど、寂しさって、『ある対象が無い』ことに対して抱く感情な気がする。誰かがいなくて寂しい、とか、今のテーブルは食べ物が少しずつしかなくて寂しい、とか。だから、ある対象が再び現れれば、寂しさってある程度はなくなるし、代替品で埋めることもできると思う。けど、悲しさってその対象がもっと抽象的で幅広くて、根源的な感情だから、代替品で埋めたりとか、何かが手に入ったら消えたりってことは難しい気がする。寂しさは埋めるって表現されるけど、悲しみは埋めるって表現あんまりされないよね。」


しどろもどろに私が話すと、彼女は目を輝かせて、

「たしかに、彼氏が今いなくて寂しいって感情は他の男の人と会ったり遊んだりすれば埋まる気がするけど、そんなことしても悲しみは消えないかも」

と言った。

彼女の理解度と解像度が高くてびっくりした。
抽象を具体に落とし込むのが上手い。



その会話から自分の過去にも思いを馳せた。

私はしばらく恋人がおらず、恋人が欲しいと思えることもなく、ただ寂しさだけは一丁前にあったので、時折訪れる後腐れのない関係や向こう見ずな出来事を甘んじて受け入れていた。いや、割と望んで受け入れていた。恥ずかしながら。(女の子だもの色々あるのよ)

その瞬間だけを切り取ると寂しさは埋まり、幾ばくかの安心感に似た何かも生じるが、問題はそこからの帰り道だ。

朝とも昼とも言えない時間に自分の悪事を痛々しく詰め上げるような太陽の日差しと、嫌味のように澄んだ青空、毛穴を浮き彫りにしてよれたファンデーション、少し酒と煙草の匂いの残る髪、ゴミ出しをする主婦と反対方向に歩んでアパートの階段を昇る浮腫んだ足、整頓された部屋に投げ出した小さなバッグ、ベッドに投げ出された私の体。そして次の日には何事もなかったかのように友人とけらけらと笑う自分。

すべての事象が、すべての物質が、私を汚らわしいものだと責め立てるようで、いたたまれない感覚に陥った。

そしてなんとか化粧を落としてベッドに寝転ぶと、そこにあるのは消せない悲しさだった。

当時の自分の生活は到底きれいなものではなかったし、精神衛生も倫理観もあまり良くなかったことを自覚していたので、自分のすることを正当化したり、被害者ぶったり悲劇のヒロインぶったりはしたくなかった。なので私以外の何かが悪いとも思わなかった。

ただ奥底に、拭いきれない悲しみがずっと体育座りしてこちらを見ていた。



やはり寂しさは埋められて、悲しみは埋められないのだと思う。

水平線のように遥かに続く悲しみを、どこかで蒸発させたり、波を止めたり、という形でしか悲しみは消えない気がする。

時間が経てば、考え方が変われば、どこかに誰かに分散させられれば、悲しみを上回る喜びに出会うことができれば、など、蒸発のさせ方や波の止め方は人それぞれだろう。


ただ、いつかは悲しみが終わるように、陽の光を怖がらずに全面に受けて蒸発して、空気に溶け止めるように、と願っている。

そう願うのは、私の悲しみに対してだけではない。

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