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満たされているということで、足りない

なんか、要らないし なんか、足りない

大好きな曲のワンフレーズ

最近、久しぶりにブランデーを買った
ブランデーとウイスキーの違いは原料で、ウイスキーは穀物、ブランデーは果物を使う。ブランデーはウイスキーよりクセの強さみたいな物を感じるが、逆にウイスキーより香りが豊かであるとも言える。

今日の1日を振り返ると、一日中地面を削ってた。僕の主な業務は肉体労働だから、こういう日はままある。
最近は気温も高くて、肉体労働が捗る。体を動かせば心は満たされるし、うまいご飯もある(自炊だけど)
雨風を凌げる家、楽しい仕事、酔えるお酒、本
今の僕は最高に満たされていて、何も不足を感じない。
このままベッドに入ってしまえば、きっと僕は心地よく眠れるだろう。
正直、今の僕が文章を書く必要はない。伝えたい思いや、使命感に一つとして狩られていないからだ。
ではなぜ今文章を書いているのか。自分でもよく分からない。
言うなれば、満ち足りていることが怖いということなのだろう。
何か不足がある時、その一点のみに集中できる。今はどうだ、思考が散乱し、あらゆることに目がつくような感覚を味わう。
あらゆることが目についたところで、それに対して不平や不満を感じるわけではない、ただそこにある物を肯定するだけだ。

春の息吹が加速するのを感じる。アネモネ畑がカラフルになった

何かが足りなくて、追いかけていた時期を今思い返す。僕は何を求めて走り続けていたのだろう。心が満たされると、そんなことをふと忘れる。
「これが俺の幸せだ」という感情に対して、同時に停滞や惰性の感情を感じる。ここから僕は一歩も動くことなく一生を終えるのか、という漠然とした強迫観念。満たされることにより生じる不安とは、大体そういう形をしている。

惰性や停滞、それらを肯定できないのは、僕がこの時間を生きているからで、時間が進む中で、自分の状況が変化しないというのは、エスカレーターに乗っているのに自分の位置だけ動かないみたいな、不可思議な感覚のような気がする。

僕がここに生まれて生きるということは、視点を大きくすれば些事であり、だがこの世界を知覚する主体は己であるという、俯瞰と主観のギャップとか考えると、なんで今の僕はそもそも考えているとか、生きているとか、様々なことの理由が曖昧になる。
僕は小3の時に家の鏡を見て、「自分は自分である」という自我の芽生え的な物を経験した時、言いようのない恐怖に襲われた。僕は僕以外の何者にもなれないという恐怖に。

その恐怖は極めて概念的で哲学的、生物としてそれを知覚すること自体が一つの欠陥であるように感じた。

とにかく僕が考える人間である以上、僕は考え抜き、幸福を希求する。それが生物に与えられた唯一の正解であると信じる。僕の持論。幸福の形は人によって異なるので、幸福の希求を許可することは、人の衝突を許可することなのだ。
暴力性を帯びない理論とは、それ自体が怠惰であると言わざるを得ない。スクラップアンドビルドの精神は、合理的であると判断せざるを得ない。

そんなわけで、僕は幸せなのですが、同時に不安であるというお話でした。

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