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【図解】『関係性の構造』で考える人類史 ~EP4「定住革命から農耕国家へ」~

気候変動と定住革命


ここで一度、人類がどのようなタイムスパンで集団生活の有り様を変化させてきたかを確認しておこう。霊長類である人類の祖先がチンパンジーと進化の袂を分かったのが、およそ600万年前。そして現生人類(ホモ・サピエンス)が登場したのは約30万年前といわれている。

現在分かっている限りで言えば、人類はおよそ紀元前1万2千年に定住を始めだし、農耕集落の最も古い証拠が見つかったのが定住からずいぶん経った紀元前5千年頃。文字を使用し、城壁を備えた最初の都市国家となると紀元前3200年頃にならないと出現しない。

つまり、現生人類に限ってみても30万年にわたる人類史のうち、およそ29万年は農耕はおろか、定住すら行っておらず、ほとんどの期間を少人数の集団で遊動しながら狩猟採集生活を続けていたということだ。また、定住化がはじまって以後も、狩猟採集や遊牧による生活を続けた人たちはいたが、現在ではかなり減少している。

遊動生活では食物のある場所や獲物を探して渡り歩くため、定まった所有地をもたず、そのためテリトリーをめぐる縄張り争いは基本的に生じない。また、得られる食物も腐りやすいため、皆で分け合って食べざるを得ない。したがって、食物や獲物を得た人間が自分の食べる分よりも多く保有することがおきにくく、すべての成員に平等に分配される。

そしてなにより、狩猟採集生活では基本的にその日に必要な分さえ得ることができれば、余って腐らせるほどの食料は必要ない。その場に食料がなくなれば、また移動して次の食料を探せばいいのだ。およそ8万5千年前にアフリカ大陸を出て以降、人類は食料を調達するためにマンモスをはじめとする数々の動物を捕食しながら、さらなる食料を求めて地球上の各地に拡散していった。

では、なぜ人類は定住や農耕を始めたのだろうか?現在もっとも有力な仮説は気候変動によるものだ。最終氷期が終わるおよそ1万4千年前頃から、地球は次第に温暖化を始め、氷期には乾燥した草原や疎林が広がっていた中緯度の地帯では、雨量が増え、温帯森林や湿地帯が広がっていく。草原での生存に適した大型草食哺乳動物を追って移動生活をしていた人々は、森林や湿地帯の動植物を食料源とし、さらに落葉する冬期に備えて、木の実などを備蓄するようになる。堅果類や野生の食性植物、水生食物が豊富に採れる地域に定住を始めた人類は、温暖化の影響もあり、人口は急増したと推定されている。

しかし、およそ1万3千年前から1300年もの間、急激な「寒の戻り」(ヤンガードリアス・イベント)が起きたことで、森林の食料が減少し、また野生動物の乱獲が行われた結果、安定的な食料を確保するために、植物の栽培や動物の家畜化を開始することになったのだ。

とはいえ、ほんらい繁殖のために種子を散布しやすくできている野生種(そのため種子が茎から剥がれやすい)から、豊富な実りを得られる栽培種へと品種改良するには数千年もの期間が必要だった。環境や状況に応じて、食料を最大化するために、狩猟採集と栽培、牧畜を組み合わせるハイブリッドな生活が長く続いたのだ。

ヤンガードリアス期の冷涼化は、野生種の生育期間を減少・制限させ、それが多年生草本から一年生草本への変更を促し、胚乳の増大をもたらした。つまり、植物の方も生育量が減る分、一本あたりの実を増大させたのだ。人類はこうした少しでも実りのよい種を選別し、栽培していった。

また、多種多様な獲物を捕え、家畜に適した動物を保護し、餌を与え、繁殖させるテクニックも磨いていく。必要なことは何でも利用し、試行する開拓者として、人類は危険と不確実性に満ちた自然を少しずつ改変し、飼い馴らし、自らに有利な環境を構築していったのだ。

こうして次第に定住化していった人びとの暮らしは、氷期が終わり温暖化が加速することで、食料の安定的な確保を可能にし、人口が大幅に増えていくことになった。そのことはよりいっそう、農耕を大規模に展開する必要性を生んだ。

しかしながら、土地を耕し種を植えてから、肥料をやり、雑草や害虫を除去し、長い期間を経て無事に実りのときを迎えるまで、農作物を厳重に管理するのは殊のほか骨の折れる作業だ。皆で食べる一日分の食料さえ採取すれば、厳しく束縛されることもなく暮らせる狩猟採集生活とは比べようもない重労働だったはずである。

また、遊動しながら離合集散し、多種多様な食生活をしていた狩猟採集時代に比べて、人口密度が高い生活空間に定住したことで、ゴミや排泄物、死者の取扱いが問題となる一方、家畜動物が持ち込む疫病や感染症が流行するうえ、栄養価が偏った食生活に変わったことで体格や身長も衰えるなど、必ずしも快適な生活とは言えなかったようだ。

都市国家の誕生と正統性

しかも、安定した食料が得られる分、農耕に適した肥沃な土地や、収穫物の収奪(出来上がった穀物の横取り)を目的とした「集団間の争い」が起きるようになった。先に書いた通り、狩猟採集生活では基本的に「土地の所有」をめぐって縄張り争いは生じない。

集団どうしの小競り合いはもちろんあっただろうが、集団間の互酬的な取引や婚姻による親族関係の結縁により、敵対関係を継続することは周到に避けられてきた。つまり、「贈与と返報」にもとづく「交換型の関係性」を集団間に適用することで、競合関係を回避することができていたのである。

ところが、農耕の開始は、土地の利用に関する人びとの認識を劇的に変化させることになった。農耕にかかるコスト(重労働)とリターン(収穫高)およびリスク(不作)のあまりの大きさのために、土地の所有権の帰属先を明確にし、より価値の高い土地をめぐって争い合う状況を生み出してしまったのだ。

また、先行世代から引き継いでいることが土地の「所有権」を示す何よりの証しになったことで、死んだ者は自分たちが居住する近傍の土地に埋葬され、「祖先崇拝」が強まった。祖先が同じであることを集団のアイデンティティーにする「氏族集団」も土地を中心に形成されていく。

そして再び気候変動が人類の生活形態に変化をもたらす。およそ5千年前に始まる寒冷化と乾燥化によって、食料が安定的に採れる森林や湿地帯が減少することにより、豊富な養分を含む肥沃な河川沿いの湿地帯に、いくつもの集団が結集した、大規模定住による「都市国家」を生み出したのだ。

集団規模が大きくなることで、よりいっそう農地を拡大することが求められ、そのことがますます人口と集団規模の膨張をもたらしていった(集団間の軍事的な紛争は激しさを増し、戦闘によるものとみられる傷跡をもつ死者が顕著に生じるのは、人類が大規模定住による農耕を開始して以後のことである)。

また、集団規模の拡大によって、その内部においても、もはや狩猟採集時代の小集団で行われていたような高い協調性や共感力にもとづく「共同型の関係」を維持することは困難だった。増大した人員の団結と統制を実現し、維持するための「正統性原理」(社会を秩序づけるために用いられる権力の源泉)が求められていたのだ。

こうして、かつて狩猟採集時代に祀られていた「精霊」や、農耕や軍事において功績を成した「英雄的な祖先」が集団の象徴的存在として序列化されていき、ついには世界全体を統御するような「超越的な力を宿す神」を最高位の権威として創造することで、集団の宗教的糾合をはかっていったのだと思われる。

そのため、都市国家の成り立ちを物語る「神話」や「創世譚」がそれぞれの都市、地域で生み出された。神々を祀る「神殿」が都市の目立つ位置に設けられ、人びとは苦難や災害を避け、豊作や雨季の到来を祈って神々のもつ力への信仰を深めていった。

そのため、世界秩序をもたらす神々との「交渉権」や「血統」がある(と称する)者が、人間社会の「秩序」を作り出す力を掌握する権限をもつと見なされた。より正確に言えば、そのような権力をもった者が「神々」との近縁性を主張し、さらに言えばそのような「神々」を創造したのだ。

かつては精霊に憑依して自然や祖先の"意向"を告げていたシャーマンや、気前良く集団内の調停役をつとめていた首長は、神々の力を付与された(みずからを神格化した)宗教的カリスマ(預言者)や軍事的リーダー(戦士)に取って代わられた。

ただし、国家の統治を担った新たな役者たちは、シャーマンが特殊な儀式にのみ神々の仮面や衣装を身にまとったのとは異なり、また首長のように慎み深い謙虚さと聞く耳を必ずしも持っていたわけでもなかった。もっぱら、みずからの力の行使を常態化する根拠として「神々」に近づいたのだ。

その一方で、集団に対して帰属意識を持ち、仲間に貢献することを厭わない「本性」を身に着けていた人類は、集団の存続のためなら身を挺して命を投げ出すこともできる性質まで備えていた。また、集団内でそのような勇気やふるまいを褒め称え、名誉や名声を与えることが一種の「報酬」ともなった。

こうして、宗教的・政治的リーダーたる王は「神々」の権威を借りることで、集住や農耕に必要な土地を管理し、集団内外におこる紛争を解決するため、集団の結束を促し、人員を統率し、動員する権力を有していく

また、このような行政を日々執り行い、大規模な集団の社会生活を成り立たせるには、専門的な職業による分業が必要であったが、収穫量が豊富で脱穀すれば貯蔵が比較的容易な穀物は、非農耕民(聖職者、職業軍人、行政官、技術職)のための余剰生産を可能にした。

職業の位格によって社会は「階層化」され、職業や権限が「世襲」で継承されることで「身分制」がはじまりまった。こうして、より上位の階層がより多くの富を得る権利を独占することも可能になった。狩猟採集生活において何とか抑制されてきた、「序列による専横」「階級による格差」がついに生まれたのだ。

ハイブリッドな「関係性の構造」

国家の非エリート階層(臣民)には、農地や穀物の種が「貸与」され、きつい農耕に従事させられる一方で、収穫物の一部は「税」(負債に対する返済=利子)として徴収されることになった。これが返せないものは奴隷の身分に落とされた。

また、ムギやイネなど特定の穀物が積極的に栽培されたことには、収穫量が管理しやすいという側面もあった。根菜類などのように地中に作物ができてしまったのでは、収穫量の把握が困難になるからである。

ちなみに、都市国家で用いられた「人類最古の文字」は、徴税官が収穫量を正確に管理しやすくするための印、すなわち「数字」だった。人口や土地の広さ、収穫量の目安、税の請求、滞納の管理など、支配層が消費し、蓄積するための余剰生産物を最大化するツールとして「文字」は積極的に活用されたのだ。

「数」や「文字」は、富・人口・家族構成などを具体的に把握する技術として行政手段に積極的に用いられ(はなからすでに「戸籍」と「課税」はナンバーで紐付けられていた)、さらには、こうした統治や命令を正当化するための「法」も次第に明文化する形で整えられていく。とりわけ、余剰生産物を生み出す奴隷や臣民を一定数維持することは、国家の存続にとって最重要課題であった。

そのため、戦争の捕虜や周辺の遊動民は(あたかも捕獲され家畜にされた動物のように)奴隷や臣民にされ、農地の新たな開墾や神殿などのモニュメントを建設する工事に従事させられるほか、他所の土地や収穫物を奪うための戦争にも従軍させられた。国家がその見返りとして与えたものが「貨幣」である。それはいわば国家が発行する臣民の労働(貸し)に対する賃金(負債の証し)だった。

当初は穀物などの"現物"で渡していた貨幣だが、それはのちに国家の信用力(富の蓄積)にともなって、何かと交換する"媒体"として人びとの間で流通するのであれば、貝殻や金銀などの鉱物、果ては"ただの紙切れ"(紙幣)でもよくなっていく。

こうして、臣民への農地の貸与による、税という収穫物の利子付き返済システムは、統治者に多大な富の蓄積をもたらした。かつて狩猟採集生活で行われていた「富の共有」にもとづく「共同型の関係性」は崩れ去り、「贈与と返報」による「交換型の関係性」は、身分制による「序列型の関係性」に取り込まれることで「貸与(農地)と返済(税)」「労働(労役・軍役)と賃金(貨幣)」に変換されたのである。

定住革命後の古代農耕型国家

臣民にとっては、さらなる国力増大のため、外部との軍事抗争に駆り出されるのに加え、新たな農地を開墾し灌漑を整える労苦はそうとう厳しいものだったに違いない。しかも、気候や干ばつの影響などで不作になれば、それまでのすべての苦労は水の泡になってしまう。

最初期の都市国家に外壁や環濠があったのは、なにも外敵の侵入を防御するためだけではなかったようだ。それは、あたかも"家畜化"する動物を逃がさないために設けた「檻」のように、奴隷や臣民の逃亡を防ぐ目的でできたものでもあった(外に広がる"野生"の世界に逃げ込もうとした人たちがいたことは容易に想像がつく)。

残念なのは、こうした非定住民(ノマド)の歴史の多くを知ることができないことである。石造りの巨大なモニュメントをはじめ、文字として記録され残っているのは、文字通り「文明化」された都市国家によるものがほとんどだからだ。

豊かな狩猟採集生活を謳歌していた人びとは、「文明化」した人びとから遅れた「野蛮人」と称され、侮蔑されてきた。しかしながら皮肉なことに、野生の動物が人類に養われることで徐々に家畜化したように、国家に属する人びとは農耕に依存する定住生活が日常化していくことで、みずからを「文明」と称して「自己家畜化」していたのかもしれない。

低緯度の温帯地帯に暮らす人々は、森林で豊かな狩猟採集生活をみずから敢えて捨て、食べるために一日中身を粉にして働き続ける必然性も必要性もなかった。その一方で、中緯度から高緯度にかけて乾燥した草原に暮らす遊動民は、地理的に限定された定住生活では生み出せない物品を運ぶ「交易」や「行商」の担い手となり、また定住型の農耕国家が苦労して得た富を容赦なく収奪する「戦闘集団」にもなっていく。

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メソポタミア、インダス、ナイル、黄河、長江のような上流から運ばれる地味多い肥沃な土地は、穀物を大量に栽培することに適しており、古代の農耕型国家はこうした地域で生み出された。数多くの都市国家や王朝が衰退、滅亡し、そしてまた新たな国家が勃興するということを繰り返したが、国家運営の「フォーマット」自体は汎用性が高く、規模や強制力の程度は違えど、基本的に同じだった。

つまり、統治者が神々の権威を借り、穀物の農地を人びとに与え、その見返りとして税を徴収し、労役や兵役に従事させるという統治方式は、その後も人的・物的資源の管理運用術(OS)の原型として、どの国家にも採用(インストール)されていくことになるのである。

(つづく)


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