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【書評】『人新世の資本論』:斎藤幸平

本書『人新世の資本論』は、地球環境汚染や途上国・非正規労働者からの不当な搾取を告発する“ありがちな”経済開発批判にとどまらず、マルクスに遡行することで、資本主義が要請する「成長神話」を根本から解体し、さらにその先の社会のあり方を具体的に模索しようとする、非常に野心的かつ魅力的な本である。

資本制生産様式が回転し続けるための前提条件(=無限の利潤追求と価値増殖)を維持するために、ありとあらゆる事物(惨事ですら!!)をビジネスターゲットとする「歯止めなき商品化」がもたらす地球規模での物的・人的資源からの収奪。その破壊的プロセスがどこまでこの惑星とそこに住む生物たちの営みに瀰漫していくのか…。かつてカール・マルクスが喝破したその射程の広さと深さを、著者が未完の草稿をもとに読み解いていく過程は、稀にみる知的スリリングさに満ちており、推理小説さながらにページをめくる手を決して止めさせない。

「各人はその能力に応じて(貢献し)、各人にはその必要に応じて(与える)。」これがマルクスが想定した協同的相互扶助(コミュニズム)の基本原理であるならば、人類史を繙けば大規模定住化以前の狩猟採集生活では、それは当然であるどころか必然ですらあった(マルクスがもし長生きしていれば、その関心は経済学から人類学に向かったのではないだろうか?)。人類学者のデヴィッド・グレーバーによれば、軍隊や会社をはじめ(資本主義社会のもとですら)あらゆる組織は、このコミュニズムの原理なくしてチームとして有効に機能するはずはないのだ。

本書の後半では、まさにマルクスが晩年に構想した自発性に基づく「自由の国」の具体像を、資本制の拡大によって私有化されてきたコモンズ(衣食住や教育・福祉などの共有財)を市民が企業や行政から奪還し、自分たちの手で民主的に管理しようとする「市民営化」と、協同組合などを通じて、市場の外で便益を確保しようとする「社会的連帯経済」を広げていく試みに見ている。

とはいえ、行政や市場に過度に依存せず、自分たちの生活世界をベースにした「自由で開かれたコミュニティ」を自分たちの手で構築することなど果して本当に可能なのだろうか?たしかに、こうした「住み心地の良い生活圏を自主的に構築しよう」という試みが絵空事であると一笑に付すのはあまりにも容易だ。

しかしながら、安易で怠惰な現状維持を決め込む前に、まずは思い出す必要がある。利潤の最大化とシステムの維持・存続のためなら、過労死や鬱病を多発させ、貧困層を徹底的に利用することを厭わない「集金マシーン」たる資本制システムや、共産体制とは名ばかりの「没人格的な官僚制」がもたらした現実が、果たして人々にどれほどの「幸福感」や「安堵感」(商品購入による便利さや快適さではなく!!)を与えてきたのかを。

個人的には、本書を読むまでそうした試みは、スペインのキンセエメ運動やイタリアを端緒として起こったスローライフ・スローフード運動について少しばかり知っている程度であったが、本書のおかげで「脱成長理論」や「社会的連帯経済」のさまざまな実践を知る契機ともなった。

今後は、試行錯誤しながら成功事例を増やし、こうした試みをマクロにどれだけ社会実装できるかが問われていくことになるだろう。ただし日本では、それこそ丸山眞男から柄谷行人まで名だたる思想家たちがアソシエーショニズムが成立しにくいと嘆いたように、なかなか前途多難である。


人類史を振り返りながら、私なりに整理したものについてはコチラ



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