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コンビニ人間 村田沙耶香 感想

初出は2016年、同年の第155回芥川賞の受賞作。当時に読んだ印象は、変わり者の主人公がコンビニ店員という仕事に適応し、能力を発揮するのだが、その人生のすべてにおいても「コンビニ店員」のようになってしまうという、風刺の効いたコメディだというものだった。

いつも聞いているポッドキャストで取り上げられていたのでこのタイミングで再読したが、色褪せていないどころか、現代的な切迫したテーマを既に先取りしていて、その先見性に驚愕した。

まずは、当時の芥川賞選考委員の講評を眺めてみよう。

コンビニという小さな箱とその周辺。そんなタイニーワールドを描いただけなのに、この作品には小説のおもしろさのすべてが、ぎゅっと凝縮されて詰まっている。十数年選考委員をやって来たが、候補作を読んで笑ったのは初めて。(山田詠美)

人は誰しも自分の言葉を喋り、自らの欲望に従って行動しているように見えて、じつはほかの誰かの言葉や欲望を模倣しているにすぎない―と、このあたりの事情は数多の思索者によって論究されてきたわけだけれど、本作はこの人間世界の実相を、世間の常識から外れた怪物的人物を主人公に据えることで、鮮やかに、分かりやすく、かつ可笑しく描き出した。傑作と呼んでよいと思います。(奥泉光)

セックス忌避、婚姻拒否というこの作者にはおなじみのテーマを『コンビニ人間』というコンセプトに落とし込み、奇天烈な男女のキャラを交差させれば、緩い文章もご都合主義的展開も大目に見てもらえる。巷には思考停止状態のマニュアル人間が自民党の支持者くらいたくさんいるので、風俗小説としてのリアリティはあるが、主人公はいずれサイコパスになり、まともな人間を洗脳してゆくだろう。(島田雅彦)

指のささくれを一本ずつ抜いていくような心理の詰め方が逆にユーモアを生み、異物を排除する正常さの暴力をあぶり出す。読後に差し込む不思議な明るさに、強く引き寄せられた。(堀江敏幸)

社会的異物である主人公を、人工的に正常化したコンビニの箱の中に立たせた時、外の世界にいる人々の怪しさが生々しく見えてくる。あるいは、明らかな奇人、白羽が主人公の部屋で一緒に暮らすうち、思いがけず凡庸な正体を露呈してしまう。あやふやな境界を自在に伸び縮みさせる、このあたりの展開を面白く読んだ。(小川洋子)

職場というものが、その仕事への好悪とはべつに、そこで働く人間の意識下に与える何物かを形づくっていくさまを、村田さんは肩肘張らずに小説化してみせた。その手腕は見事であって、わたしは芥川賞にふさわしいと思った。(宮本輝)

おそろしくて、可笑しくて、可愛くて(選評で「可愛い」という言葉を初めて使いました)、大胆で、緻密。圧倒的でした。(川上弘美)

諸氏のコメントから見えてくるのは、「表現としてのユーモアが秀でている」「コンビニというものの現代的・社会的な意味が描けている」「描写が緻密であり、人間の本質に迫っている」といったところだろうか。どのコメントも、今となってはやや古色騒然としてみえてしまう。

実をいうと私は今回、この作品を「障害者小説」として読んだ。主人公の吉倉恵子は発達障害者であると伺わせる描写があり、そのような人物が「コンビニ店員」という仕事で社会に適応しているのだが、やがて世間の常識という名の暴力に脅かされていく、と解釈したのだ。刊行当時とは異なる文脈で読み解けるのは、社会通念が急激に変化していること、作品の強度が高いことを示している。

発達障害は外部から見えにくく、本人もそのことに気づかないまま「変わっている」「普通と違う」として集団から排除されることがある。小説の登場人物に「発達障害」というレッテルを貼ることは作品の抽象性を毀損することにもなるかもしれないが、感想文で指摘することで、受け手の解釈が広がるのではないかと考えた。

主人公の恵子と、中盤以降に登場する白羽という人物は、対比的な性格特徴がある。恵子は感情が欠落しており、自分だけのこだわり、執着、価値観というものを持たない。喜怒哀楽に乏しいので、周囲の反応を見ながらそれを模倣し、そうした学習の蓄積を行動原則にしている(まるでAIのようだ)。

コンビニという業態は、店舗がガラス張りで24時間明るく輝いており、ブランドが確立しているのでどの店舗でも同じようなサービスが受けられる安心感がある。そうした予測可能性や透明性、一貫性は、店員である恵子にとって安寧で穏やかな環境であるのだろう。コンビニが地域の役に立っていることは事実として体感しやすいので、恵子自身の自己肯定感にも結びついているかもしれない。

白羽は、感情の起伏が激しく、コントロールされていないので、我儘で幼稚な人物に見える。自己を正当化する過程において、彼は彼なりに論理を組み立てているので、論理的な思考は得意だろう。両者とも極端にキャラクターライズされているが、程度の差こそあれ、今やどこにでも居て不思議ではない人物であるとも感じる。

芥川賞の選評において主人公を形容しているのは「怪物的人物」「奇天烈な男女」「社会的異物」「明らかな奇人」といった言葉だが、今となってはそうした表現も躊躇われる。その中で、村上龍氏のコメントが、他の選考委員とは異なる次元で作品を理解していると感じ取れた。

「現実を描き出す」それは小説が持つ特質であり、力だ。今に限らず、現実は、常に、見えにくい。複雑に絡み合っているが、それはバラバラになったジグソーパズルのように脈絡がなく、本質的なものを抽出するのは、どんな時代でも至難の業だ。作者は、「コンビニ」という、どこにでも存在して、誰もが知っている場所で生きる人々を厳密に描写することに挑戦し、勝利した。(村上龍)

私は村上龍氏の小説はほどんど読んでいる。SMやドラッグによる精神の変容を扱った作品もあるし、ソシオパスやサイコパスが出てくるホラーやサスペンスも書いている。いずれも非日常の物語設定における異形な人物を描き出すことで、その先にある普遍的な人間性を炙り出そうという試みである。

『コンビニ人間』は、「見えやすい」日常的な舞台において、「見えにくい」人の心を厳密に描写することに挑戦し、勝利している。

近年におけるこのような小説の主人公の変遷を「怪物の民主化」と名付けたい。彼ら彼女らはもはや怪物ではないと言えるし、誰もがみんな怪物だとも言える。酷い世の中なのか?いや、人間とは本来そうしたものだという気がする。

このポッドキャストが再読するきっかけになった。


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